月に一回発行される園内便り「創造の森」に掲載されている園長 木村 仁の父母に向けてのメッセージです
2015年度12・1月号
「孤独と苦悩の中で、人間の可能性を発見する日々」
(自分自身の可能性も信じられるか、試された時代)
2015年度 園長のお話会第4回-園長の青年期?50代・60代
2015年11月27日(金)12:45~14:00
今日は園長の50代、60代について話します。まだ青年期です。大人になりきっていません。
50代、60代は孤独と苦悩の連続でした。今もそうですが、大きな夢を追い続けていました。なぜ、孤独と苦悩のどん底で20年過ごしたか、当時の在園児のお父さん、お母さんは、私の苦悩を知らなかったようです。その日を生きるだけで精一杯、明日のことは考えられないような日々でした。しかし、大きな夢は持ち続けていました。
90年代にバブル経済がはじけて、120家族が入園してくれれば安定した状況が続くのに、入園家族が減り始めて、苦しい時代が20年続きました。
この園舎を建てるために、銀行から生命保険を担保に5000万円借りたために、毎月40~50万支払わなければならなくなりました。ビニールハウスより奥の土地も月10万円で借りたために、とんでもないことになっていました。ですから、税金の滞納、私学共済の掛け金の滞納などもあり、公証役場で念書を書かされたこともありました。牧師時代にはそういう経済観念があまりなかったものですから、ただ情熱でここまで、「ばんけい」、「トモエ」を創ってきて、バブルがはじけることは予想できませんでした。
ビニールハウスで2年やったのですが、なぜ、園舎を建てることになったのか。あるニュースキャスターには「なぜ、学校法人をとるのか?なぜ園舎を建てたいのか?ビニールハウスでいいじゃないか」と言われました。しかし、私は一匹狼にはなりたくないし、世の中から離れた言動はしたくないと思っていました。学校法人を取得して、みんなと一緒に歩みたいと思いました。学校法人をとっても、独自の人間研究はできるはずだという信念がありました。あまり世の中からはずれた状況にはしたくなかったというのが一つと、税金を少しでも正しく使いたいという理由があったので、学校法人をとりました。学校法人をとって、補助金をもらって男性教師に長く勤めてもらって、良い環境を創りたいという思いがありました。ビニールハウスだけでやっていたのでは世の中は認めてくれないだろうし、男性教師の給料も確保できないからです。世の中は男女半々なのに、教師に男性を入れなければおかしいと私は素直に思いました。女性だけの世界で、子どもを育てるのは良くないと思いました。バブル期もバブルがはじけてからも、男性は仕事ばかりでかわいそうなくらい忙しく、家と会社を往復する毎日です。
今日話したいのは、“人間の持つ可能性のすごさ”についてです。
南米のウルグアイのホセ・ムヒカ元大統領、いま世界中でブームになっていますが、優しさと生きた言葉と、真をついた内容の話をたくさんしている方です。
《人間は、強い生き物であり多くのことを乗り越えられます。悪いことは、良いことを運んでくれるものです》(ホセ・ムヒカ元大統領)
私も、50代、60代では、地を這うような苦悩と孤独の中で生き続けたけれども、数知れないほどたくさんの人の優しさと配慮と思いやりを受けて、良いことも何倍も何十倍も連れてきてくれました。青組や小学生くらいの子どもたちになると、夏には近くのハーブをとって来てハーブティーにしてお母さん方に強制的に売りつけて、300円とか500円を園長に寄付してくれるというかわいい天使がいてくれたりもしました。
《人生において、限界を知りどんな小さなことにもありがたみを持つようになったのです》(ホセ・ムヒカ元大統領)
これはムヒカさんの体験なんですね。私もそうです。自分の限界も知り、どこまでどうしたらよいのか。色々な人に優しい声をかけられ、金銭的な協力も得たりして、そういうことはもう数知れません。人間というのは、すばらしい能力があり、可能性に満ちていることも、この20年で経験しました。
特に私が、ムヒカさんと大きく違うのは、生活環境をどうにかしたいという、基本的なシンプルな考え方です。これは、世界的に知れ渡るだろうと期待して、皆さんにも何度も話した言葉でもあります。
【すべての人間は母から生まれる。これは当たり前のことなんです。女性も母から生まれ、男性も母から生まれてくる。その母が胎児期・乳児期の子どもとどう関わるかで、どのような人間が世に送り出されるのかということになるのです。】
だから、母、女性という言葉は、女神とか、母なる大地、母なる大河、母港、またカトリック系では聖母という言い方もあるのです。現代人は、そんなに母に負担をかけられたら困るという人が多いです。確かにそうです。私も45年間じっくりとお母さん方を観察させてもらっても、77歳になった今も新しい発見があるんです。母というのはどんな心境なのだろうか、母というのはこんな感情を持っているのだ、ということを知りたいという意志をもってアンテナを張って、毎日お母さんや子どもと関わっていると新しい発見をすることができます。
みなさんよりも、ある意味では、女性であり母であるということの情緒や感情面を理解していると思います。言葉や文章にすることは難しいものですが、母とはどういうものかを言葉で残していきたいと思っています。
この先、どこへ行くか、私は知りません。この次の人生はどうなるかわかりません。色々な人が色々なことを考えますが、考えても考えても人間にはわからないことです。今の一日が大変なのに、天国とか地獄とか考えてもみません。ただ今を大事に生きていれば、必ず死に際も良いだろうし、死んだ後も気分が良いのではないかと思っています。そう思っていれば良いのではないでしょうか。手の届かないところにあまり一生懸命手を伸ばそうとしないほうがいいと思います。
ですからここでは、子どもを産めない女性が来ても、1人しか産めない人が来ても、子どもが2人であろうと6人であろうと、色々な経験をよそのお母さんから、あるいはよその子どもたちから、人間の可能性のすごさを発見できる生活の場を創りたいと思います。
今は、「教育」というのはばけものです。すべての人が見失っていると言って良いくらい教育の本質を失っています。なぜか、それはシンプルで簡単なことです。教育というのは、人が幸せになるためのものです。学歴や学力のためのものではありません。スポーツや音楽ができることでもないのです。
私がはっきり言えるのは、『自分と親しくコミュニケーションができること。多くの人と少しでも心が通じ合って、心が温かくなるような生活。生きることが喜びとなるようなコミュミケーションが取れること。これらが本当の幸せだ』と思うということです。ムヒカさんと私の考えの大きな違いはそこにあると思います。それも45年、人間の基礎研究として、乳児と母を、人間となる、あるいは家族となるところから観察研究して現在に至っています。母の素晴らしさを研究、実践して、母が素晴らしい子どもを世に送り出していければいいかなと思っています。幸せの原則をいかに実践できるのか、自分はこの50代、60代は試された時代だったと言ってもよいかもしれません。
試された自分の例として、こんなことがありました。子どもはぎりぎりまでおしっこを我慢するくらい夢中になって遊んで、靴を放り出してトイレに駆け込みます。間に合わずおっしこをもらしてしまう子どももたくさんいました。それくらい夢中になって遊ぶのです。しかし、今の教育では『靴を並べて靴箱に入れない子は悪い子、です』となってしまいます。それは集団暴力です。教育とは言えないものです。強迫です。簡単なことです。
私も、最初は靴を並べない子どもたちに、しつけの悪い子どもたちだとイライラしながらこつこつと靴を並べていました。そのうち、自分に限界を感じると、靴並べで遊び始めました。今度やってみてください。自分が試されるから。そのうち片方と片方別々の靴をわざと並べたり、前後を逆にしてみたり、スタッフも親も気が付いた人が並べればいいと、そんなことが5年、6年ありました。トモエに来ても、それがありました。そのうち、2歳、3歳の子が私のまねをして並べ始めたり、お母さん方の中には「園長、ご苦労さんー」と言って通り過ぎる人もいたりします。色々な人生を見てきました。
しかし、10年、20年経つうちに自然に並べていく、私も青組までは我慢できますが、小学生には「大きくなったんだからさ、靴ぐらい並べてよ」とはっきり言います。「小さい子が、『おしっこー』って来て、靴が散らばってたら、入りずらいんだから、小さい子に配慮しようよ」という言い方もします。だから完璧な良い言葉だけではなく、少し嫌味のような言葉も出てきて嫌だなとも思いますが、それも私の一部かなと思っています。
お母さん方、男の子のトイレを時々のぞいてみてください。まるで洪水のようです。だから、小さな穴をねらってしなければならないようなトイレを作ってみたいなと思ったりしています。私も小学1年生の頃、北上川にかかる橋の上から川に向かっておしっこをしたことがありますが、おもしろいです。男の子はよく高いところから気持ちよさそうにおしっこをします。雪の上ですると色々な模様ができるから、それを楽しんだりしています。だからそんな男の子の心理をついた遊びを取り入れたような便器をつくってみたいなと思ったりしています。
そうして楽しみながら生活してきました。そうでないとやってられません。自分と付き合いきれないのです。だから、子どもにああしなさい、こうしなさいと命令的にものを言うよりも、お母さんはこう思うとか、お母さんはこういうことがあってちょっと悲しいんだ、苦しいよと自分の気持ちを言うのです。上から、これとったんでしょとか、あなたが一方的にたたいたんでしょとか、親が最初に決定的なことを言ってしまうと、子どもは鎧兜を着てしまいます。そうではなく、私の靴並べと同じように自分の思いとして、私はこう思ったという言い方をしていくと自分で考えて、自分の行動に責任のとれる人になっていると思っています。
ですから、この苦しみを通して、自分の生きる目的とは何なのか、自分は自分らしく素敵な表現をしていける人間になりたいなと思っています。靴並べにしろ、トイレ掃除にしろ自分のためにしています。教師に靴並べをしてくれと命令したことはありません。よそから来た人には、「自由の上にだらしないのか」と思われるのではないかと心の中では思っても、口には出しませんでした。トイレも汚いからふいてくれということは言いません。その人が気が付いて自然にやることが、スタッフでも身につくことでしょ。
ですから、ばんけい幼稚園を創って半年もしないうちに、高学歴のお母さんたちに袋叩きにあいました。最初は自分のわかる範囲で気が付いたことを一生懸命やるのですが、それ以上気が付かなくなると、「何かない?」と言ってくるので、「自分で考えて気が付いたことやって」と言いました。「トイレが汚い」と言われたら、「気が付いたのはあなたでしょ、ふいてよ」という言い方をしたんですね。すると、それが理解できない人たちもいて、夫を連れて8組くらいの親が来て、かなりひどく、叱咤激励されました。
そこで最高のことに気が付きました。自分でも限界がある、と。ムヒカさんも言うように人間には限界があるんです。それを知って、たくさんの人と一緒に良い環境を創っていこうよという基本的なものを親から学んだんですね。
それから30数年経っていますが、現在は東京のある大学の大学院生が来ても、「こんな世界は見たことがない」と言われるようになりました。多くの見学者が言うのは、スタッフとお母さんと全然区別がつかないということです。皆が同じように動いているから。子どもたちが、「遊んで!」ではなく、主体的に「遊ぼう!」と言うからです。その大学院生は、全国の自然環境を大切にする幼稚園を調べて文科省に提出するようです。その研究が長続きするかどうか、来年続くかどうかもわからないそうです。自然環境と乳幼児や、自然環境と母子関係を研究するなら、何十年もかけなければならないのです。しかし、研究のトップが代われば1年か2年で終わってしまうのが現状です。大学の教授くらいであれば、「20年、30年あるいは100年の計をたててこの研究は続けるべきだ、予算をもらわなければ困る、そうでなければ引き受けられない」というくらいのことを言ってほしいと思います。それがないから、世の中がおかしくなるのです。教育とは何なのかというのを幼稚園・保育園の中でまるっきり誤解されて親たちに伝わって、子どもをどういう人間に育てていきたいのか、自分の言動が50年、100年先に、子孫にどんな悪い影響を与えてしまうのか、考えてもいない、そこが大きな問題です。それを私は皆さんに残していきたいと思うから、50代、60代の金銭的に大変な時でも頑張ることができたのです。
そして、超有名な朝さん、黒柳徹子さんのお母様です。『窓際のトットちゃん』あの本が出て、すぐお母さんの朝さんに会いに行ってきました。なぜかというと、戦後の時代、手作りのドレスを着て遊びに行った徹子さんが、バラ線に引っ掛けてドレスをボロボロにして、汚して帰ってきた時に、「あら、いっぱいあそんだのねー」と言った朝さんの一言に惚れてしまったからです。普通は、手作りのドレスを汚されたら怒るのに怒らない、これはすごいと思います。私は、徹子さんよりも朝さんに魅力を感じて鎌倉の自宅まで会いに行ったんです。牧師時代の30代のことですが、2回ほど朝さんに鎌倉に会いに行きました。
その後ビニールハウスで全国的にテレビに出た時に、朝さんが「木村先生がんばってるのねー。応援に行くわよー」と言って来てくれました。ビニールハウスの中で話をしてくださったんですけれども、ビニールハウスに入った途端「あらハワイに来たみたい」と言ってくれたのです。暑いと言われたら私はすごく傷付くのですが、人の心を感じ取ってすぐにそういう言葉が出てくるというのは、すばらしいですね。だから、朝さんは娘の徹子さんと張り合っていました。『チョッちゃんだってやるわ』という本を出したりもしていました。いつまでも少女のような気持ちをずっと持っている方でした。「子育てっていうのは、90になってもしなきゃだめなのね」と朝さんは90歳になって気がついて、「いつまでたっても母っていうのは、子育てしなければならないのねー」と私に素直に話してくれました。
私がなぜトモエという名前を付けたのかというと、小林宗作さん(徹子さんの通ったトモエ学園の創設者)のように何十時間も母や子どもの話を聞ける人になりたかったからです。自分に強い意志を植え付けたくてチャレンジのために「トモエ」という名前を付けました。また、トモエという世界、小林宗作さんの世界を超えたいというもう一つの目的がありました。(人生の先輩の実践を土台として、積み重ねるのが、人生の後輩の務め)それで4、5年前からもう超えられたなと、じゃあ次何か、創造家族幼稚園という名前を付けようかとずっと思っています。すでに心の中ではその名前を付けていると思っています。トモエという名前は卒業しています。
苦しい中でも一つの目標を持って、自分の可能性を信じていくことが人に対しても、同じ可能性を持っている人間なんだ。だから自分に期待をかけて、靴並べでもトイレ掃除でも、人の見えないところでも、これからも行動していこうと思っています。これらは、人生の原則だと私は思い続けます。
3歳や5歳の子どもに、私が悪かった、これから改めるからごめんねと言えるお母さんが増えています。子どもはそういう母を通して、素直っていいなーと感動するのです。だから、スタッフが素直に表現するのを見ても、あっ素直っていいんだと子どもは思います。しかし、子どもが素直に表現すればするほど、お母さんはつらいんだよね。なぜなら、皆さんは2歳や3歳の時からここに来たわけではなく、大人になってから来ているからです。脳が固まっている部分があるから、それをほぐすのは大変なことなのです。
ここに胎児期から来た子と、1歳から来た子と、2歳から来た子と、かなり個性が違い、発達が違うことをお父さん、お母さん方も段々と感じ取ってきてくれています。もし違いがなければ、私はトモエを創っている意味がないと思います。1歳から来ようと、5歳から来ようと、6歳から来ようと、もし同じであれば、2年保育でも、1年保育でもいいわけでしょ。ここでは来た年齢によって絶対に違うのです。2、3か月の違いでも、違うと思います。リズムをどうつけるか。音楽と同じようにリズムが必要なのです。昔の壊れたレコードのような音楽では、心のリズムもつかないのです。リズムをつけるにはどうするか。「とばないレコード」になるためにもね。やはり、リズムをつけて来ること。リズムをつけて親友をつくって、多くの人たちと楽しく生活することをみんなで創っていけば、幸せになっていけると思います。
もう一つは、日々、お母さん方の意識が高まっているのと、日々、お母さん方の目が輝いていくのと、子どもたちが本音を出していけばいくほど、子どもと少しでも誠意を持って関わろうとする意識が高まっていることを感じています。
40代後半、50代始めのビニールハウスの時は、ビニールハウスが暑いのをどうやって涼しくするかなどいろいろ工夫していました。太陽がさしている時のハウスと、周りを開けて涼しい風が入ってきた時の気持ち良さ、空気の面白さを子どもたちは経験しているんじゃないかなと思います。寒いときは、ビニールハウス用の暖房を入れたりもしました。それはNHKの取材も来て全道放送にもなりましたが、色々なことを考えました。畳を全部入れて、お父さん、お母さんみんなで100枚以上敷いたりもしました。お腹に赤ちゃんがいるのを知らずに畳を運んで流産してしまったお母さんがいたことは、私は一生忘れません。気が付いてあげられればと思ったりもして、色々な思い出があります。
苦悩の中でもお母さんたちが輝き、子どもたちと誠意を持って正直に対話しようとする姿を見て、成長するお母さんを見守る喜びを感じています。
もう一つは、本音を出してぶつかる子どもたち、それを受け止められるお母さんとそうでないお母さんがいると、もうハラハラドキドキして、がんばれよーがんばれよーってお母さん方にエールをいつも送っている自分もいました。ですから、自分の苦悩よりも、本音を出させてしまった私の責任を、今でもそれは感じますね。だから、定員が120家族なのに入ってこないというのは、現代社会のお母さんたちは、教育という目的を失った世界で生きてきたからだと思います。自分が何者で、どんな可能性に富んだすばらしい人間であるのか、何のために生きているのか、私は15歳から考え続けて現在に至っています。それを求めてきているから、職業だと思ってもいないし、改革だとも思っていないんです。自分がどうすれば幸せになれるのか日々探索しています。人生の先輩として、何かを(永遠に)残したいのです。
昨日あるお母さんと立ち話をしていたら子どもが、「おかあさん、さがしてたのにどこにいたのさー」と言ってきました。目の前にいるはずなのにね。そこでお母さんを手助けするために、「いやー、園長がさー、しゃべりたくてお母さんゲットしてたんだー」と言うと、その女の子は小さい時から来ているから、私の脛をやさしく蹴っ飛ばすだけだからね。何も言わないから。それでコミュニケーションが取れているのです。楽しいよ。子どもの世界は言葉じゃない。そういう楽しい会話を小さいうちの子どもと身に着けてほしいと思うのです。素直に表現して、大人でも自分が失敗したらごめんねと言う。そんな大人が幼稚園から大学まで先生と言われる人たちの中に、素直に子どもにごめんと言える人がどれくらいいるのでしょうか。いないとは言えませんが。子どもに自分がこうやって傷ついたと表現されたら、「そうだったの。ごめんね」と言える大人になれたら、自分が過ちを犯した時に素直に子どもにごめんと言える大人になれたら、社会はもっと素敵になるんじゃないかと思います。
20年後には、子どもが減って、今よりも800万人くらい就業者数が減少するという試算を厚生労働省が出しました。労働者不足になるそうです。そうなれば、中国などから人を呼ぶ形になると思うんですけれどもね。家族が家族の機能を失い、夫婦が、親子が、お互いに理解し合おうという意識が欠如しているのが今の社会です。私たちが、気が付いた者から、自分を理解することが、結果的には、一番親しい人を理解しようと努力することにつながり、それがイコール愛情であり、優しさであり配慮だと思うのです。
それは、ムヒカさんが言うように、基本的でシンプルなことなのです。難しいことではないのです。それを大人から子どもへ、子どもから子どもへ、戦後から伝わらなくなってしまっているところに大きな問題があるのです。それは、ムヒカさんが言うのは、使い捨ての消費文化で、10万時間持つ電球を作れるのに、1000時間持つ電球しか作らないというようなことです。しかし、原子力発電所で事故を起こしたりして、5年後には蛍光灯を使ってはいけなくなると今朝の新聞に載っていました。蛍光灯を製造しなくなり、LEDに切り替えるそうです。
ムヒカさんは、
≪私の言っていることはとてもシンプルなものですよ。
発展は幸福を阻害するものであってはいけないのです。発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはなりません。
愛 を育むこと、人間関係を築くこと、子どもを育てること、友達を持つこと、そして必要最低限の物を持つこと。発展はこれらをもたらすべきなのです。
幸福が私たちのもっとも大切なものだからです。
環境のために闘うのであれば、人間の幸福こそが環境の一番大切な要素であることを覚えておかなくてはなりません。≫
と言っています。
私は、母子関係をベースにして、良い関係を創っていけば、自然にムヒカさんの言うようなことは、無限の可能性を持った人間は、それを発見できるはずだと思っています。
いつか話をしましょう。私は、昭和29年15歳の時に北海道に渡って来ました。電気も水道もない、ランプと湧水で、馬小屋と一体の家で生活をしました。熊が住んでいるところで10年開拓生活をしました。そういう生活をしたからこそ、こういう基本的でシンプルな原則、法則論を学べているのではないかと思っています。
ですから、私自身は、
【胎児・乳幼児期の子どもと特に母親を尊重できる生活環境を創り続けることが、人類の幸せになると信じ続けて生きてきました。】
そこをポイントにしているから、ぶれなかったのです。どんなに罵倒され、お前なんか教育者じゃないと言われても闘争的になることもありませんでした。今でも色々なことがあっても、争うことを避けられる自分がいるのを感じて、とても幸せに思っています。お金が少々かかろうと、争わないで、豊かでいればいいのではないでしょうか。今日、何十人かのお母さん、子どもやお父さんに接して、私との心地よい人間関係を持ってくれることが私のやるべきことだ、それが、年配者として人生を生きている者としてやるべきことじゃないかと思って生きています。
【人間としての基礎を創る時期の乳幼児期。その子どもと関わる母親の存在の尊さ、偉大さを、人間生活に甦らせてもらいたいのです。】
そう思って生きています。
それでは、男は何なのか。私も男です。中性になりかかっているけれど。男の幸せは単純です。妻がにこにこして輝いてくれて、やさしい言葉の一つも言ってくれて、母と子の関係が良ければ、それで幸せだなーと思うのが男です。男ってみじめだよ。私が、「男は黙ってモルツ!」と言うのはそこなんです。男は給料を持ってくる体の良い下宿人だよ。みじめだよ。誇りを持ってよ、お母さん!子どもを産めるというのは最高の動物だと思います。なぜ神様は、男も子供を産めるようにしてくれなかったのかなと思っています。男と女両方持っている動物もいるのだから。果物の柿は男と女と両方持ってるんですって。私もそれがほしかった!
ムヒカさんはこういうことも言っています。
≪私は消費主義を敵視しています。現在の超消費主義のおかげで、私たちはもっとも肝心なことを忘れてしまい、人類の幸福とはほとんど関係のないことに、人としての能力を無駄遣いしているのです≫(ホセ・ムヒカ元大統領)
私が言い換えると、人間を尊重しない、あるいは子どもとか乳幼児とか母を信用できない大人たちに悲しみを感じます。これを読んで心が痛んでメモをしました。乳幼児と母の存在の大きさ、偉大さを尊重できない大人たちの生き方に、悲しみ、苦しみと痛みを感じます。
是非、何年後かには、ムヒカさんと対談してみたいなと思っています。
≪人間の最も大事なものが生きる時間だとしたら、この消費主義社会は、そのもっとも大事なものを奪っているのですよ≫(ホセ・ムヒカ元大統領)
私は、【人間の最も大事なものは、輝いた人生、あるいは時間だとするならば、母と乳幼児期を大切にできない社会は、人間の幸せを奪っている】と思います。
人間が最も考えなければならないことは、生きる意味、なぜ生きているのか、なぜ生まれてきたのかということです。旧約聖書も学んできた私は、これはやはり母が輝いて、子どもが輝いて、それが子孫に何十年も、何百年も、何千年も続いてほしいという気持ちで今を生きています。
だから、13日に、日本ユネスコ協会の理事長の野口さんに手紙を送りました。国連事務総長に手紙を送りたいと、母子関係について、何百年も、何千年も続くような優しさ、思いやりがつかえる人間生活環境の国際的な研究をしてほしいと、それが何十年、何百年かかろうとやっていきたいんだという気持ちで、アイデアをくれないか、力を貸してくれないかということで、手紙を出しました。いつ連絡が来るかはわかりません。
私は世界的に呼びかけないと、日本だけでは120家族集まらないと思います。世界の人たちが来て、120家族にしたいのです。そして世界に発信したいのです。今でもここには、ベトナム、オーストラリア、カイロやサンフランシスコなど、世界から来ているのですから、例がないわけではありません。
モンゴルでも自然はたくさんあるのに、ウランバートルでも子どもたちはみんなテレビゲームをするのだそうです。子どもたちが外に出ないことを、ここに見学に来たモンゴルの幼稚園の園長たちは心配していました。その中の一人の女性は、自分は耳鼻咽喉科の医者をしていたけれども、忙しくて体を壊してしまって、大切なのは幼児教育だと思って、今は幼稚園建設のために理事長として頑張っているそうです。その方も感動して帰ってくれました。通訳の方に後から聞いたのですが、3泊4日で、ここで生活して体験したかったと言って帰って行ったそうです。モンゴルから3、4回来ていると思いますが、今回も5、6人のグループで4回見学に来ました。世界規模で発信し始めています。そこで、来年の3月までには、報道関係にも呼びかけて、世界に訴えていきたいと思っています。
いつもアンテナをはって最先端の技術を躍起になって勉強しているのですが、ある科学者が、手を失った人のために、思い通りに指が動く義手を創ったそうです。私は色々な研究から刺激を受けています。
人間の優しさや配慮、人間の持つすばらしさを創る環境とは何なのか、それを100年、200年かけて国際的に研究を続けていかないと、特に文明社会は滅びるんじゃないでしょうかね。
テロがいつどこで起きるかわからない時代です。
ムヒカさんは、銃を持って改革のために、警察官を撃ったくらいの人です。そういう苦しみがあるから彼の言葉は生きているのだと思います。私は、銃を持って人を殺したことはないけれども、それに近い20年間の苦悩を通して、優しさと思いやり、「北風と太陽」の本にあるのと同じように、温かいものを降り注ぐことができるのは、私は、母だと思っています。改革ではなく、大切なのは、自分が変わることだと思います。
ムヒカさんも言っています。
≪あなたたち日本人は日本を変えることはできないだろう。だけどあなたは自分自身を変えることができると思うよ≫(ホセ・ムヒカ元大統領)
本当に、母というのはどんな存在であるのか、自分を見つめて、胸を叩いたらホコリ?が出るくらい誇りを持ってください。
おわり