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月に一回発行される園内便り「創造の森」に掲載されている園長 木村 仁の父母に向けてのメッセージです
2015年度6月号
「園長の母親観と胎児乳幼児観」
2015年度 園長のお話会第1回-園長の子ども時代
2015年4月24日(金)12:45~14:00
【 母親の生活を知ることで、自分を知ることになる 】
私の胎児期・乳児期に母がどのような生活状況だったのかを知ることで、自分はどのように育ったのかが分かると思いますので、そんなお話をしたいと思います。
母は、30年近く前に72歳で亡くなっていますが、現在も自分の心の中に鮮明に生きて、励まし、勇気づけてくれています。母は、現在の私の働きを支えてくれる原動力でもあります。
多くの若い母親と関わらせていただいている私は、人間にとっての母親の存在の重要性についても、日々認識させられながら現在も生きています。母親が、ひとりの命、人生に与える影響力は多大なものがあり、その存在の尊さを知ることで、自分を知ることになるのです。
私が生まれる数年前からの母の生活環境についてお話します。
なぜ私が生まれる前からの話をするかというと、私を妊娠中の母の精神衛生がどうであったかが、私の命、人格に大きな影響を与えている気がするからです。私は、妊娠中の母の精神衛生が良好であったから、現在私が、母親研究と同時に胎児、乳児の世界を理解しようとする意欲があるのだと思います。
【 母の壮絶な人生のなかの7年間、静かな時間の中で私は育った 】
母は、男4人、女4人の8人兄弟の第一子目の長女として生まれて、昭和4年に17歳で8人の兄弟姉妹がいる軍馬を育てる根室中標津の開拓農家に嫁ぎました。車がなかったので、母は妊娠中や出産前まで、馬車ではなく、乗馬で移動していたそうです。お腹が大きくても、馬に乗っても平気なんですね。第一子目に男の子が生まれたのですが、1歳で亡くなってしまいました。その母の悲しみはずっと封印されていたようですね。私にも一切兄の話をしたことはありません。大家族の中で、長男が生まれて期待されていたのに、その子が1年で亡くなってしまったことは、母にとって大きなショックだったようです。子どもを亡くす、あるいは妊娠中の子どもを亡くす母の悲しみを、トモエで多くのお母さん方に告白されて、その悲しみを受け止めてきました。女性が持つ一人の命を守ろうとする力、思いは、男には無いものだし、男には理解できない世界です。
当時の農家には丸い塔型のサイロにデントコーンを切って吹き上げる機械がありました。その機械で、冬に牛のエサである“草の漬物”のようなサイレージ(発酵食品)を作っていました。
父は人一倍働く男だったようです。昭和12年9月、父が熱を出して休んでいる時に、父が来ないと機械が直らないということで、体調が悪いのに行ったそうです。そして、父は、その機械にデントコーンを入れている時に、腕まで入れてしまい、サイロの中で作業をしていた人は、急に指が切れてぽろぽろと落ちてきてびっくりしたと、数十年後に私も話を聞くことになりました。根室中標津なので、車がなかったのだと思いますが、馬車で何時間もかかって、氷詰めになって根室市の病院まで行って手術したそうです。高熱があったので、3週間くらいずっと氷詰めになっていたようです。快復した時には舌がおこげのように、ぼろぼろ落ちてきたそうです。人間の命のすごさを感じます。右腕をひじまで切ってしまったので、肩の近くまで、腐って、切ることになってしまいました。翌年私が生まれた時には、右腕は上腕部の半分くらいありませんでした。乳幼児期に腕のない父親を見たことが、私の人間観に生涯を通して大きな影響を与えているということを強く感じています。乳幼児から見て育つと「ありのままを認められる人になれる」ということを・・・。
その頃、母はまだ26歳でした。母は夫が生死をさまよう世界を見てきて、やっと11月下旬に良くなって帰って来て、ほっとしていたと思います。その事故から2か月後?に私の命・妊娠が決まったようですね。私の命が与えられる前は、母の人生は壮絶でした。
その後、父は農家ができないだろうということで、父の叔父を頼って、東京の豊島区雑司が谷に移住したのです。母にとっては初めての大都会での生活でした。北海道で命が育まれて、昭和13年9月29日に東京雑司が谷で私が生まれました。妊娠中の母は、一軒家でゆったり過ごし、安定した日々であったようです。夫の命が救われたこと、十数人の大家族から離れて家族だけでゆったりと過ごしたことで、当時の母には大きな安心感があったように私には感じられます。長男を1歳で亡くした母にとっては、私が生まれてホッとしたことでしょう。跡継ぎの長男ということもあったので、男の子が生まれたことで、母はそういった意味でも心が救われたのではないかと思います。
私には、6歳と4歳年上の姉が2人いるので、その姉たちに生きたお人形のように関わってもらったようですね。もし兄2人だったら、私は野球の選手か、スポーツ選手になっていたような気がします。姉2人だったから、今私はお母さんたちの側でずっと忍耐?!していられるんでしょうね。忍耐というのは冗談です。幸せです。人間の基礎研究ができるのですから・・・。
男にしてみれば、女性というのは、違う動物でしょ。私は年々女性を理解するのは大変だということが分かります。私は26歳の時に結婚しましたが、半年もしないうちに、結婚した相手は女性だったんだとびっくりしました。結婚前や結婚当初はどこかで、お互いに合わせて上手くいっていても、段々本音が出てきたら行き違いが多すぎて、目をぱちくりしていました。女性は物事の受け止め方が、男とは違うということを感じました。家内に「男と女は違う動物なんだね」と言ったら、「寂しい」と言われて、私はうれしかったんですけれど。
【 ありのままを測れる柔軟な物差しを求める人生 】
今でも私には男の物差ししか持てません。男の物差しで女性を測ろうとしても無理です。幼児を理解するにも、自分にも幼児期があったのだから思い出そうとすれば、少しずつ戻ってはくるものの、やはり大人の物差しで子どもを測ろうとしてしまいます。自分の物差しは、なくてはならないし、自分の物差しで、人を測るしかないのです。私はそれを次世代に伝えていきたいので、握手するたびに、お母さん方に一つ一つ託しています。男と女の物差し、大人と子どもの物差しも違うということを伝達していきたいのです。人を理解するためには、理解しようと努力することで、少しずつ理解が深まるのです。あらゆる人々を理解できる生ゴムのような柔軟な物差しが必要なのです。
私は、母を核として姉2人や近所の人々に支えられて育てられたということが、幅広く深く人間を探求することの重要性と人間を知ることの楽しさを日々体験できる大きな要因だったような気がします。もし上が男の子2人だったら、やんちゃな遊びをしていただろうし、現在ここまで母と子に寄り添っていけなかったと思います。
私が生まれ落ちた時から、私にとっては父親の片腕がないことも当たり前でした。「ありのままの父を受け入れられた自分がいた」のです。今たくさんの赤ちゃんと接して、また胎児研究もしていますが、赤ちゃんは、おぎゃあと生まれてから見たものをそのまま受け止めることができるのです。乳幼児の感受性のすばらしさを日々発見しています。
去年は「ありのまま」という言葉が流行りましたが、あれは私の特許ですからね。40年前から「あるがままを認めていこうよ」というのは、自分の人生のテーマでした。自分のあるがままを認められる人間になれると、人のあるがままも認められるのです。そうすると人生、ものすごく楽になるんです。私も長い時間がかかりましたが、人には人の見方があるし、男女で見方も違うし、子どもと大人の見方も違うし、それぞれ違いがあって当たり前なのです。お互いの違いは、乳幼児期の生活環境にあるのです。自分ではどうすることもできないことなのです。しかし、どんな人に出会うかで、その人の人生は変えられるのです。
【 町の人々にやさしく見守られて育った私 】
雑司が谷で過ごした乳幼児期、姉2人と母がゆったりしていて、地域社会の人たちにも見守られていました。おじさんたちが縁側でせんべいなど食べながら将棋を指したりしているところに、近所の子どもが来て「ちょうだい」と言えば「うん、いいよ」とくれる、トモエのような世界がありました。5、6軒の家が並んでいて行き止まり。迷路のような町並みです。
明治時代に建てられた有名な雑司が谷の宣教師館がありました。目の前には、雑司が谷幼稚園がありました。短い路地がみな行き止まりになっていて、路地を行ったり来たりして楽しんで遊んでいました。すごく面白い住宅環境でした。自動車はほとんど通りません。6歳上の姉に聞いた話ですが、菊池寛の家が近くにあり、垣根から自由に出入りして、私が縁側に行って菊池寛の奥さんからお菓子をもらって食べているのを見たことがあるそうです。その割には文才がないので、すごく苦しいのですけれどね。
地域社会の中で、2歳、3歳の幼児でも、みんなが認めてくれていました。「坊や、坊や、おいでよ、お菓子食べようよ」と言ってくれて、よその家に上がっておじちゃん、おばちゃんがしゃべっている間にちょこっと座って、お菓子をもらって食べたりしていました。
トモエがまさにそのような家族的で、生活感のある環境になりつつあるわけでしょ。子どもたちが、みんなに守られて、あるがままを認められて、その違いも認められて。最低3歳くらいまでそういう世界で生きると、3年間のベースができるから、4歳、5歳という年齢である程度「自己確立」できるのです。トモエに5、6年いると、違いが分かる人になりますよね。3歳までにそういう環境がないと、4歳、5歳で修正するのに、ものすごく時間がかかるんですね。だから卒園後も、子どもがたとえ学校に行っていたとしても、お母さんには、トモエに来てほしいのです。色々人間の成長を理解し、自分のものにするためには、時間がかかるからです。2年保育、1年保育は取りませんという理由はそこにあります。短い期間では、お母さん自身も苦労するし、子どもも苦労するからです。
今は本当の意味での地域社会性(人に配慮する・互いに助け合う環境)がなくなってしまっているから、30年前、50年前の子育てよりも、今のお母さんは、3倍も5倍も大変だと思います。それはなぜかというと、周りの人たちに支えられていないからです。今は、お母さんひとりで、マンションの一室で子どもを育てなければならなくなっています。現在の子育て環境は、想像以上に悪化していると言えますね。ですから、私は、母親たちの精神的に安定した生活環境を創るために、36年前に行動し始めました。
私は、乳児、幼児の目で見た、おだやかに生活できる環境を創ろうとしているのかもしれません。
私の思いは、
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母親が多くの人々に支えられることで、子は“良く育つ”と思っています。母も子と共に育つのです。
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母親が安定すると、家庭も安定し、家族がおだやかに育つのです。
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母親の働きの重要性、偉大さを再確認したいものですね。
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母親が、胎児、乳児、幼児に与える影響の大きさを思うと、母親を支えることが最も大切なことと思えるのです。
「人間とは何か」「生きる意味」の基礎的探求は、胎・乳幼児と母親の関係を調べることにあると信じて実行しています。
私の実践目標は、個々が幸せで、平和的な生活の日々を発見することにあると思っています。「幸せとは」自分と親しく関わり、人とも親しく心かよい合うことでしょう。心が通じ合えることで、おだやかな日々の生活が送れるのでしょう。
私は、これからも、幸せの創造のために、努力することを誓います。
※読みやすく、分かりやすいように書きなおしてみましたが、分かりましたでしょうか。書くことは苦労しますね。
※テープ起こしは、卒園家族の吉田さやかさんがして下さいました。感謝です。
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