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月に一回発行される園内便り「創造の森」に掲載されている園長 木村 仁の父母に向けてのメッセージです
2012年度9月号
『幸せになろうよ』
ユーモアと幸せな人生。ユーモアの創造。
(笑顔で明るく、楽しく幸せな日々を生きたいな~)
園長 木村 仁
おどけ、じゃらけは、幼児の本能です
おどけ、じゃらけは、人間の本能の中に組み込まれて産まれてきているようですね。乳幼児は、親や大人と対等に話せないために、神が人間に備えてくれた贈り物なのかもしれませんね。
親が機嫌のわるい時など、あるいは夫婦喧嘩をしている時など、幼児は、おどけて見せて笑わせたりして家庭内の空気を和らげようとします。じゃらけ、おどけは、心のスキンシップの基本なのです。
犬や猫の赤ちゃんなどの動物は、子ども同士でじゃらける光景を見ます。じゃらけているうちに、興奮して強く噛んだりしたときには、怒って喧嘩になったりもします。じゃらけの関わりは、相手との手加減などを学習しています。人間関係の学習です。自分がとった行動で相手がどうなったかを、何回ものじゃらけ合いで学ぶのです。人間の子どもも同じことが言えるのです。
スタッフは、子どもとの戦いごっこや、じゃらけ合いで、個々の子どもの個性や発達の違いなどを配慮しながら関わっています。
子猫は、母親のシッポが動くのを見てじゃらけて遊びます。じゃらけているうちに興奮して強くかむことがあります。そうすると、母親は、「やめて!」とギャアと怒ります。子猫は、母親の反応で、噛む程度を学びます。スタッフも、4月などの学期始めは、幼児とじゃらけ合っていて、お尻などをよく噛まれて歯形が付くこともあります。園長自身も、40代や50代のときには、お尻をよく噛まれることが多くありました。70歳になる現在は、「えんちょう!かんちょう!」はされることはあっても、噛まれることは少なくなりました。
じゃらけやおどけは、人間関係のスキンシップ創りには切り離せないとても重要なことなのです。
夫婦関係の創造のためにも、じゃらけやおどけは欠かせない重要な要素と思いますよ。74歳になる現在でも、私は意識して行動しています。ユーモアは、人間関係の潤滑油のようなものかな。
私がユーモアの楽しさの基礎を身につけられたのは、11歳の昭和24年頃からです。横浜の伊勢崎町は焼け野原でした。その焼け野原の中でも月二回、縁日があり、手品や腹話術ゲームなど楽しい遊びがいっぱいでした。11歳の私の脳裏に、手品・腹話術の不思議と面白さが心に焼きついていたのでしょう。20歳になって教会学校の子どもたちと関わるようになって、手品や腹話術をするようになっていました。
横浜の南区南太田小学校の5年生の時に、隣には横浜商業高等学校がありました。当時はY校で知られていました。その高校では、毎年の秋に仮装行列が町を練り歩いていました。小学生5年の私には、高校生が大学生のように大きく見えていました。その仮装は、とても面白くユーモアに満ちて楽しいものでした。私の心に残っていたのか、幼稚園園長になって5年目ぐらい35歳の時には、親子みんなで仮装行列をして楽しんでいました。その時の私は仮装、4輪の台車に“水がめ”を乗せて、浴衣を着て玉手箱をもち釣竿も持って登場。玉手箱を開けると白い粉が頭にかかり白髪の浦島太郎のおじいさんになったのです。会場のみんなは度肝を抜かれたようでした。それから人を脅かす快感が癖になったようです。
14歳中学2年生の昭和28年頃には、ハリウッド映画が多く上映されるようになり、ユーモアに満ちた映画を多く見るようになりました。『雨に唄えば』は、有名なシーンがあります。雨の中、傘を差しながら踊っているうちに、傘を投げ出して水溜りの中をタップダンスで踊る楽しさの中にも爽快さを演出していたのです。映画『グレン・ミラー物語』では、ユーモアがいっぱいの演出でした。あるシーンでは、花嫁を抱いて部屋に入り抱いたままの姿勢で開いているドアーを花嫁の足が伸びてドアーを閉めるのです。私の心に残るユーモアのシーンなのです。夢に向かって夫婦がお互いに励ましあって生きているのです。スイングジャズの王様である「グレン・ミラー楽団」が人の心をとらえて60年も存続しているのです。札幌でも毎年演奏会が開かれています。実在した人物です。
日本映画も毎日のように見ていました。娯楽映画も多く観ました。東京の町田市の映画館に入りびたりでした。学校の昼食代が映画に変わってしまっていました。現在は、ポップコーンを食べながら映画を見ているのでしょうが、わたしの場合は、甘納豆でした。映画館の前には、甘納豆がいっぱい売っていたのです。思い出の多い甘納豆です。
ユーモアと共に楽しく生きる
私は、笑われて、悲しくなることも多くありましたが、めげずに楽しく生きることを現在でも努力しています。着飾ることなく、できるだけ本音で表現しようと意識しています。40歳から牧師を卒業させてもらい幸せの創造のために、具体的に生活環境をつくってきたのです。資金がなくても・・・・。
赤組の藤田太郎君(仮名)の曾おじいちゃんの藤田保平さんに33年前に、「木村さんが必要と思っているなら、資金がなくても始めるべきです。この世には、その人しかできないことがあるのです。資金があってできることなら、もうすでに誰かがやっているはずです。私も乳業組合、後の雪印乳業を資金がなくても名寄市と中標津町に大正時代に創りました」。その言葉に後押しされるように、「ばんけい、トモエ」を資金がなくとも創造できたのです。ひとりでも多くの人が幸せになってほしいと望みながらユーモアを忘れることなく・・・・。ユーモアが私になかったら自分の心も体も持たなかったでしょう。
「創造の森学園札幌トモエ(家族の)幼稚園」は、それぞれが「夢を大きく膨らませ合える夢の森」になってほしいと願い創造したのです。みんなで、笑顔で明るくユーモアが飛び交う楽しい日々が創造できるように夢見て森の中に生活環境を創ったのです。心通い合う人を一人でも多く創れるように願いをこめて・・・。
人生は、自分も含め悲しいことや辛いことが「もういいよ」と言っても押し寄せるときがあります。そんな時の私は、ユーモアで自分自身の心のバランスをとることにしています。だって暗くなってしまう自分と長くお付き合いしたくないのです。ユーモアで余裕が生まれ、余裕ができるともっと素敵なユーモアが増してくるのです。楽しく生きましょうよ。
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