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月に一回発行される園内便り「創造の森」に掲載されている園長 木村 仁の父母に向けてのメッセージです
2015年度7・8月号
「園長の少年期の生活~様々な体験」
2015年度 園長のお話会第2回-園長の少年時代
2015年5月15日(金)12:45~14:00
まず、前回のまとめをしたいと思います。母は、20歳で根室中標津の開拓農家に嫁ぎ、大家族の中で、妊娠中お腹が大きくても乗馬で移動しながら生活していました。長男は1歳で死んでしまい、女の子2人を産んで育てていました。その後、父が事故で片腕を失ってしまった時には、高熱で氷漬けの状態で生死をさまよっていましたから、死んでしまうのではないかと心配しながら待っていた母は、どんなに辛くて、耐えがたいことだったでしょうか。その後、父が退院して帰って来て、ほっとして、そこで私の命が与えられてしまったようですね。だから、私の命はドラマチックな誕生の仕方だったような気がします。
その後、東京の雑司が谷という、車も自転車もあまり通らない迷路のような街並みの人情味あふれた環境に移住し、私をお腹に宿した母は精神的にもゆったりし、地域社会のみんなに支えられ守られて暮らしました。私は誕生後も4歳と6歳年上の姉たちや地域の多くの大人たち、子どもたちと触れ合いながら育ちました。母の精神衛生、環境が、私の妊娠中と6歳までの7年間だけ良好だったのです。
それゆえに、6歳までの環境がいかに重要であるか、それをトモエという形で社会に還元できる自分は本当に幸せ者だと思います。人はそれぞれ違う人間であり、生き方も違います。それぞれの人間の未来を考えると、待たなければなりません。私は、待つことは愛だと思います。愛を使うことで待てる人間になれるのです。
私の弟が生まれた昭和19年の暮れには、戦火が東京にも及びそうで危ないということになり宮城県に疎開しました。それからは、母も働かなければならなくなり、ゆったりできなかったような気がします。私の姉弟は私のような生き方をしているわけではありません。私は、姉たちにお人形さんを可愛がるように扱われて育てられたのだと思います。だから、姉たちとの関係もとても良いです。どういう人間を創りあげていくか、どういう人間を世に送り出していくのかは、母の置かれた環境、母の心ひとつにあると言えるでしょう。母の偉大さ、すごさを知り、母をとても大切にする社会を創りあげていかなければならないと、私は決心しています。
最近、従業員の家族・妻を大切にしている工務店の例をテレビ番組で見ました。そこは、11人の大工さんがいる工務店です。給料日にみんなで車座に集まり、社長が「ご苦労さん」と言って桶に入ったお寿司を食べ給料を現金で渡すのです。そして亭主は家に帰って、封を切らずに給料を奥さんに渡します。奥さんは夫の好きなケーキを用意しておいて、子どもたちと一緒に食べて、「ご苦労さん」と言って、夫の前で給料袋を開くのです。50年くらい前の社会のようですが、その社長のコメントを聞いて、私と同じ考え方をしている人がいると、うれしく思いました。「奥さんが家で安定していれば、夫は良い仕事ができて良い家を建てることができて、住む人に良い環境を与えられる」と言っていたのです。奥さんが不安定な状態で男が外に仕事に行っても、良い仕事ができないだろうというのは、基本中の基本だと私は思っています。
実はそれは、奥さんだけの問題ではありません。自分がどのような環境で自分をどのように育てていくかが、問題なのです。
『自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい』と聖書にも書いてありますが、それを私は実行しようとしています。
身体や心が健康な状態で生まれてこない子どももいます。それをどのように健康な状態に持っていくかも私は考えています。
大切なことは、お母さんたちがどのような形で自分と向き合い、自分と関わって、どのように自分の気持ちを調整していけるかなのです。トモエは、そのお手伝いをし、あるいは、自分というものを発見するための場所です。日本だけではなく、世界のどこにもトモエのように多くのお母さんたちや家族を受け入れている幼稚園はないと思っています。お母さんのための総合的な環境創りをして、お母さんだけではなく、トモエに通えなかったお兄ちゃん、お姉ちゃんまで含めて、卒園後もバックアップしています。“お母さんのための幼稚園”と、はっきり言っているところはトモエだけだ、と確信を持って実行しています。ですから世界に向けて発信していきたいなと思っています。
ある卒園生のお父さんの言うように、皆さんがどういう形で人生を送るかで、一緒にノーベル平和賞も取ることができるし、争うことなく、人を受け入れながら一緒に問題を克服していける人間になれるのです。そういう人間を皆さんの周りからどう創り上げていくかで、戦争のない、そして、人と争わない世界が創れるのではないかと思っています。
私が15、6歳で人生とは何かを悩んだ時には、私はどうしてこういう星の下に生まれてきたのか、なぜ皇族に生まれなかったのか、なぜ貧富の差がこんなにもあるのかと“真剣に考えた”こともあります。しかし、70歳を過ぎた現在は、母の胎内にいた時から6歳までの7年間の人生が感謝できるものであり、大きなエネルギーになって私を支えてくれていると感じています。そして、多くの人たちに体も心も含めて、支えられて生きていることに感謝しています。
人間は、心と身体のバランスをとって自己調整できれば、自然にお金は入って来るし、良い人間関係もできてくるのです。ですから、自分の器を大きくしたいと思えばできるのです。人間は可能性に満ちています。
『個々が自らの可能性を信じ、夢と希望をもって、自らに期待をかけて生きることが、教育・人生の目標ではないでしょうか』
「センス・オブ・ワンダー」の著者のレイチェル・カールソンも言っているように、人間は不思議と神秘に満ちた存在です。皆さんはそれぞれ、自分の心や身体のことを何パーセントくらい知っているでしょうか。私は今でも知りたくて、胎児の研究もしています。
園児のお母さんの15ページに渡る第1子目の妊娠記録を読ませていただいて、とても感謝しています。10分の1でも妊娠体験をしてみたいと思いました。妊娠7、8か月目で胎児が下に下がる時があるそうです。「下がるまで大変よね」というお母さん同士の会話を聞いて驚きました。それは、今までに聞いたことのない話であり、経験したことのないことだからです。私は、胃潰瘍になっただけでも大変な思いをするのです。子宮に受精卵が着床して、粘膜が変化して、胎盤ができ、日々胎児が成長し、大きな変化をしていく、出産まで母は日々お腹の中の子どもと会話をしていかなければならないんだと想像し、感じて、うわぁーと思いました。妊娠記録を読んだ後、命の尊さと尊厳をより感じとっている自分を感じています。
命の尊厳ということを考えると、お母さんたちに申し訳ないけれど、もう一度妊娠中を思い出してもらいたいと思います。自分の命が、たとえどういう状況で生まれてきたとしても、園長のように良い環境ではなくても、どうにか自分で心も身体もコントロールして、どう素敵な社会を創るか、子どもたちにも素敵な精神環境を提供できる女性になり、自分の器を大きくしたいと思える人になれるよう願って、トモエを日々創造しています。ゆったりした妊娠期間が、生まれてくる1人の命に大きな影響を与えること、その期間の環境によっては生まれてきた子どもの人生を不幸にしてしまうこともあるのです。
家族同士が争い、家族が問題だと言って、自分の命まで否定してしまう人が出始めているような時代になってきています。なぜ家族が憎しみ合わなければならないのか、なぜ家族が殺し合わなければならないのか、そういう心の行方についてはほとんど研究されていないのです。それを研究するのは皆さんです。皆さんの手にかかっていると思います。
私の母は、そんなに偉大ではなかったけれど、ただ7年間だけ安定してくれていて、安定した環境の中で私を産んで育ててくれました。そういう意味では幸せだなーと思っています。皇族に生まれなくて良かったと思っています。15歳でなぜ皇族に生まれなかったのかと思いましたが、今、私は私で良かったと思いますし、今も命について新しい発見ができる人間になれて良かったと思っています。宇宙以上のドラマが女性の小さな子宮の中で起こっているということも、もっと真剣に話したいと思っています。
千葉大を卒業したばかりの女性が、トモエを応援してくれていて時々来て下さる大学の冨田さんの授業でトモエの話を聞きビデオを見て感動し、まだ新入社員であるにもかかわらず、トモエの企画を立ててくれました。その女性は、BSフジで放送している「一滴の向こう側」というドキュメンタリー番組をつくっているそうです。この番組はすごく面白い番組だと思います。トモエのビデオを見ただけで感動してくれて、まだ新入社員なのにトモエの企画を立てくれる女性がいることが私はすごくうれしく思います。
お腹の中にいる時から胎児は母の影響を強く受けて育つのです。だから、私は、第1子目の妊婦さんを集めて、トモエで育ててみたいと思っています。トモエで一緒に生活してもらうと、第1子目をお腹に宿している妊婦さんたちもリラックスして過ごせると思います。第1子目は、初体験だから、どうしても緊張するのです。たとえ、卒園して、小学生になっても、高校生になっても、社会人になっても、第1子目だけは、お母さんにとって初体験だから、緊張し続けているのです。第1子目は初体験、二子目は、一度体験しているから、お母さんもリラックスしていられるのです。写真も第1子目はたくさん、二子目はちょこっと、三子目はあれっとなってしまうのです。私も5人子どもがいますが、やはりそうです。どうしても、第1子目は気になってしまうのです。
多くの人に見守られて育って、お母さんが、少しでもリラックスして、良い状態で子どもたちと会話が通じ合えるような関係を持つことができたら、孫を抱いた時に、女性だから私以上に、アイコンタクトがどんなに重要であり、大切なものであるかが分かると思います。
子どもは、目を通してこちらの誠意の度合いを感じとる能力があるすごい人間だということを、感じることができるばあばになるか、感じないばあばになるかでは、雲泥の差ですよ。本当に孫と目で会話して、自分の娘やお嫁さんが嫉妬するくらい「おばあちゃん、大好き」とか「ひとしくん、大好き」とか言われたらたまらないですよ。メロメロになってしまいますよ。私は長生きして、ひ孫も玄孫も見てから死のうと思っています。
皆さんの子どもから子どもへ、100年も200年も伝わるような、争わない人間、配慮できる人間、寄り添える人間を創り出せる社会を贈りたいですね。
シカトされた子に寄り添える人間、そういう子どもが卒園生にはたくさんいます。差別のない、区別のない世界です。私の父が片腕であったがゆえに、私は区別、差別せずに、ありのままを認められる人間になったから、38歳で、障がい児とか、健常児という言葉をなくして、障がい児教育をやめました。私の心の中で、一人一人がみんな人間で、それぞれに少しでも寄り添える環境を創ろうということで、差別したり、区別する言葉もなくしました。不思議ですが、差別しないというと不安になる人もいます。自分の子どもを、自閉症だと言って指導してもらえる方が、今のお母さんたちは安心できるのです。今のお父さん、お母さんたちは、レッテルを張ってもらえる方が安定するような教育を受けてきているのです。恐ろしいですよ。そういう社会になってしまっているのです。レッテルがないと不安になるというのは、おかしすぎると思います。
今本当にめまいがしているのですが、自分の人生にめまいしているのです。
自分の体は自分で治す能力があるのです。自分で実践していますが、腹式呼吸で胃潰瘍すら治ってしまうのです。自分の心を整え、自分の体のバランスをとりながら、自分の体とどう付き合っていくかを考えているのです。
私は、生身の人間と付き合うのが好きで、特に赤ちゃんと会話するのが、色々な発見があるからすごく楽しいのです。たくさん赤ちゃんと関わらせて頂いていますが、赤ちゃんは、不思議と神秘に満ちています。無限の可能性に満ちています。人間の知識では、知りえないことが赤ちゃんに満ちています。
産んでしまったからもう遅いと思わないでください。自分が器を大きくして、変われば変わる程、子どもと共鳴し合って子どもと共有できるのが母なんです。男は肌触れ合っておっぱい飲ませたりもしていないし、胎児の時から会話したりもしていないから、そうはいかないのです。男の私が言うのだから間違いないです。女性と男性では雲泥の差です。女性が大切にされない社会は、滅びるのです。「女性がばかだと国が亡びる」という昔の人の言葉があるくらいです。
お母さん方、男を批判してもダメよ。男を批判しないで、どのように付き合ったら、良い反応が返ってくるかとか、どう自分が跪いて関わったら、相手が調子に乗ってやさしい言葉が返ってくるかとか、実験してみたら本当に面白いですよ。外で一生懸命働いていて組織に縛られて、家に帰って来てからも妻に気を遣って、かわいそうな男たちなんだから。女性は器が大きいんだから。女性は家で男性にやさしくしてあげなきゃ。女性は子どもを産めて、命を育てられるのですから。
本当にノーベル平和賞をとることで、卒園生も、卒園家族も、トモエで育ったことが蘇ってくるような世界を創ってあげたいのです。私が賞をもらうためではなく、もし、もらったら、たくさんお金が集まって来るし、ディズニーランド以上の遊びも創りたいと思っています。ディズニーランドでは、遊んでいるのではなくて、色や音に遊ばれているのです。私は、大自然の中で、自発的に、主体的に、創造的に、前頭葉も脳幹も海馬も脳全体をフルにバランスよく使えるような場を創りたいと思っています。
人間は、たとえ右脳を失ってしまっても、左脳で右脳を補える能力を持っているのです。そういう事例も勉強しています。右脳がないと字が読めないという医者もいるようですが、そんなことはないのです。人間にはすごい能力があるのです。だから総合的に脳を使っていれば、生きる力があるし、学力がなくてもいきいきと生きられる人間になれるのです。これからの社会は、今以上にそうなることが必要な社会になると思います。そういう意味では、お母さんの働きの重要性を感じてほしいのです。
上記は私の作った図ですが、人の営みをベースにして、社会は成り立っているのであり、家族が安定した状態でいれば、教育というのは、自然にできるはずなのです。教育が先になって、人の営みが、ないがしろにされているから、不安定な社会になってしまっているのです。家庭が憩いの場でもなく、不安定な状態になってしまっています。この安定した三角形があってはじめて安定した社会が生まれるのに、それがないのです。
なぜかというと、上の図は、昨年度の創造の森のタイトルの背景にも使った三角形なのですが、胎児期から色々なことを感じているのが人間なんですね。総合的に脳が刺激されて、幅広く、深く、感じることのできるトモエのような生活環境を創り、そこで生活していると、0歳であろうと、1歳であろうと、2歳であろうと、子どもたちは色々なことを感じながら生きているのです。この感じることをベースにして、生まれて1、2か月の赤ちゃんたちも、少しずつ考えることが多くなっていきます。たくさんのことを感じながら、3か月、4か月になると、言葉ではまだ表現できなくても、目や態度で分かるように、徐々に考える能力を持ち始めているのです。私は、ここトモエで赤ちゃんを観察研究させてもらって、その能力たるやすごいものだと、強く感じています。お母さんのお腹にいる時からトモエで育った子どもは、胎児期、乳児期、幼児期で感じるということをいっぱい経験して、感じる能力が6歳までに身に付いているのです。トモエで、たくさん感じるという経験をした子どもは、たくさん考える子どもになっています。
私の牧師時代(30代の10年間)からのテーマとして「生きた言動のできる人間になりたい」ということを考え続けてきました。感じるということは、乳児期になくてはならないことなのです。後にも出てきますが『自然に勝る教師なし』というように、自然は五感をすべて育ててくれるのです。すると言葉が生きてくるのです。長い間私の話を聞いてきた人は、感じてくれていると思いますが、私の言葉は生きていますか?私の言葉は、聞いた人の中にすーっと入ってエネルギーになっているでしょうか?私の行動や、背中を見て何か感じるでしょうか?
私は76歳になった今も、胎児とは何か、子宮の中で胎児に何が起きているのかなど、宇宙を研究している以上に、子宮の中を研究したいと考えています。なぜかというと、命がどう育まれるのか、これはもう神秘と不思議に満ちているからです。だから私は、医学など様々な分野の専門家や、ノーベル賞受賞者などの話をたくさん聞くようにしています。色々なアンテナを球体的に出して、色々なことを感じようとしているのです。感じようとしていると、感じられる人になるのです。あまり感じすぎて、ふらふらしてしまってもまずいので、考えないようにしているのですが、考えてしまうのです。
私の少年期は、小学校1年生から4年生まで、疎開先の宮城県石巻市の北上川沿いで過ごしました。東京でたくさんの人に出会い、ベースができていたので、疎開先の宮城でも、多くの人々に見守られながら、野山を駆けずり回って、どろんこになって遊んでいました。お猿さんのように木に登って、野生の八重桜の紫色のさくらんぼを食べていました。宮城には山ユリがあるのですが、やはりお猿さんと同じように、手で掘ってユリ根を生で食べることを覚えました。栗もほとんど生で食べていました。米どころの宮城県ですから、戦時中でも飢餓状態ではなく、お米を食べることができました。イナゴの佃煮も食べていました。兵隊さんにも送るために、小学1年生だった私も、田んぼに入ってイナゴを捕って竹の筒に入れて、私の母が、それを大きな鍋で茹でてイナゴの佃煮を作っていました。ですから、私はイナゴを見ると美味しそうだなと思います。香ばしくて美味しいのです。本当に野生動物のようでした。小さな川もあり、草の根っこで2メートルくらいの間の小川を堰き止めて、バケツで川の水を汲み出してしまって、ドジョウやフナを捕まえるのが、すごくおもしろかったです。少年時代に、自然の中で、そういう経験を、いっぱいしているのです。北上川にも飛び込んで遊んでいました。4年生の時には、ダムに飛び込んで遊んでいる時に、担任の先生が流されてしまって驚いたこともありました。昔は規制が少なかったからそういうこともできたのです。
ですから、ディズニーランド以上のおもしろい世界を創りたいと思っているのです。自然の中の、どろんこのプールで、ドジョウやフナをつかんだりして、どろ遊びをすれば、どろパックなどする必要ないですよ。それは、お母さん方の美容にもなるのです。都会の人だったらお金を出してでも、そういうところで遊びたいと思うのではないでしょうか。トモエでは、夏にそうめん流しの後にウォータースライダーをするのですが、そういうものをビニールハウスでやって冬でも遊べるようにしたりして、ディズニーランドの向こうを張りたいと思っているのです。雪のある間は、園舎の屋根に上って遊んでいる子どもたちもいますが、それも今の社会では、とんでもない話だということになってしまったりもします。私は、未来に対して、具体的な夢をもっていなければ、生きられない現在です。
『人間の豊かな感性を養い、人間の尊厳を確立する基礎的人権教育の創造』(2005・6年度 文部科学省 人権教育開発事業報告書)という、文科省に提出したトモエの実践の論文の「第2章 実践研究の基本理念」から引用した資料をお配りしました。これは、特に私が、15歳から人生について考えてきたことを論文にしたものです。その中にもあるように
『何かを学ぶためには、自分で体験する以上にいい方法はない』(アルバート・アインシュタイン博士)
ということを、一番言いたいのです。子どもたちは、1歳であろうと、2歳であろうと、痛いとか、嫌だったとか、つらかったとか、自分で1つ1つ体験することが身になって、だからどうしたらいいのか、それぞれ考えながら生きているのです。私は、世界にトモエのような環境を創って提供している所はほとんどない?と、皆さんに自信を持って言って良いと思っています。
『自然に優る教師なし』
自然が人間を創りだしていくのです。五感を刺激するのは大自然が基礎なのです。音楽、絵画、彫刻を生みだす五感は、自然からの刺激がもたらしたもので、私は将来、東京やニューヨークや様々な場所で、私の少年時代のように、山や川があり、フナやドジョウがいて、自然の中で色々な経験ができるようなトモエ以上の環境を創ってあげたいのです。
『自然に優る教師なし』というように自然は五感を刺激してくれるから、トモエに小さい時から来ていた子どもの方が、より五感が豊かでお母さんを困らせてしまうくらいになるのです。男の子は特にやんちゃで、お母さんたちに申し訳ないと思っていますが、でもやはり、自然から学ぶことが多いのです。土の匂いも乾燥した時と、湿った時で違うのです。春の匂い、秋の匂い、そよ風の匂い、それぞれ全く違います。
『子どもの頃に遊ぶすべを心得ていた人は、大人になって働くすべをわきまえた人間になります。こういう人は、ものに集中する能力とか共同作業のこつ、アイディアを生み出す力など、子どもの頃遊びのために磨いていた才能を、大人になった現在、仕事に生かすことができるでしょう』(スイスの精神医学者 ポール・トゥルニエ博士)
ポール・トゥルニエ氏、彼も14歳まではものすごく苦労した人生を送った人です。
私は、トモエを仕事だと思っていません、自分の生活だと思っていますから。ポール・トゥルニエは仕事に生かすという言い方をしていますけれども、私は、「生活に生かすことができるだろう」と言いたいですね。生まれる前から、私はこのような基礎的な人間研究をさせられる運命だったような気がします。
『人間の創造力とは、人間の“永遠の子どもらしさ”そのものです。それは、その人間が八歳であろうと八十歳であろうと、まったく同じです。人間が子どもであることをやめた時に、この創造力もまた失うのです。人間における本来の人間らしさとは、この創造的なる能力にあると思います。』(作家 ミヒャエル・エンデ氏)
私は、この言葉を実行しようと努力していますので、この言葉に出会った時には、すごく勇気づけられました。ですから現在も、いつも子どもの目で生活しています。少年の目、幼児の目で見た世界をどう実現させるかを考えています。
小学5年生から中学3年生までは、横浜に住んでいました。当時の横浜では、子ども神輿でも子どもだましではなく、本当に本格的な神輿を作ってくれていました。お祭りの時には、横浜にある、お三の宮日枝神社に各地から30台くらいのお神輿が集まってきて、並ぶのです。その神輿を、子どもも一人前にわっしょい、わっしょいと担ぐのです。今は、浅草の浅草寺の神輿も形だけになっていますが、私たちの子どもの頃は、水をかけながら、お神輿を担ぎ、没頭して楽しんでいました。そして、休憩所に行ったら大人と一緒にお菓子を食べておしゃべりして、また次のところまで担いでいきました。みな真剣でした。お神輿以外にも、子ども相撲大会もあり、どろんこになって相手と戦って、勝ったり負けたり賞品をもらったりしていました。大人たちがみんなで見守ってやらせてくれました。どろだらけ、砂だらけになり、相手のにおいを肌で感じるのです。今は、そういうことをしていないから、汚いとか、臭いとか、差別が多すぎるのです。なぜか、お母さんと二人きりで家に閉じこもって、2歳、3歳まで過ごしていたら、テレビやゲームばかりになってしまうから、人の違いを認められない人間になってしまうのです。
トモエは、一番大変なんですよ。赤ちゃんの頃からトモエにいた子どもたちは、自然に人それぞれの違いを認められますが、2歳3歳になってから来ると、違いを認められるようになるまで時間がかかったりしてしまいます。大人は、子どもよりもさらに多くの時間がかかるのです。
人間が人間ではなくなってきている危機を、私は、大きな力をつけつつ、言い続けていきたいと思っています。
最後に、私の少年時代は、映画が教科書でした。本当にたくさん、色々なジャンルの映画を見ました。特に、音楽家、シューベルトやベートーベンなど人の物語を見るのが好きで、映画を通して音楽と同時にその人の生き様も学んできました。「グレンミラー物語」もそうです。ジャズの映画も見ました。人の生きざまを学んで、自分も共有できたと思っています。
今日は、腹話術もやろうと思いましたが、やめました。ディズニーランドで40年くらい前に勝ってきたジミーちゃんという腹話術の人形があるのです。トモエの子どもは、腹話術をやると裏に回って、ああでもない、こうでもないというので、あきらめました。道立近代美術館では、5年くらい毎年夏に腹話術をやっていたんですよ。私が、手品やサーカスまがいのこともやっているのは、戦後の横浜の伊勢佐木町の縁日や大道芸人を少年の目で見て、楽しいな、おもしろいなと思ったことを実現しているだけです。南太田小学校の横には、Y校と呼ばれる横浜商業高校があって、高校生が楽しそうに仮装行列をしていました。仮装行列も園長になってから、実現しました。
最後のまとめは、「少年の目で見たもの」を現在、現実に生かそうとしているだけです。
おわり
人間の安定した生活 人間の不安定な生活
豊かな可能性が引き出される環境 豊かな可能性が引き出されない環境
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