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2013年度7・8月号
 
「園長の女性観とその実践」Ⅱ
園長 木村 仁
 
 二人の母親がトモエ便り6月24日号に、我が子との関わりの喜怒哀楽を話してくださった。母親が子どもの心を理解することの苦悩を思うと、胸が熱くなります。乳幼児と毎日生活することは、想像を超えた苦労が伴うものです。命の尊厳をお腹の中から体験している母親なのですから、特別な思いがあるのでしょうね。園長も体験してみたいよ~!
 
 乳幼児は、人間の中で一番頭がやわらかく、固定観念がないのです。心も体も球体のように、さまざまな方向から思考し発想して体験しています。大人にとっては、理解するのに最高に苦労が伴うものです。
 
 以前にも言いましたが、世界で読まれている有名なある文献には、乳幼児は「神に等しい存在」として話されています。「幼子を受け入れる者は、神を受け入れるのと同じである」と書いてあります。「神とは」、人間の能力では理解しがたい存在と、私は解釈しています。神の存在は、神秘と不思議に満ちています。宇宙の法則を理解するのと同じであると私は思っています。地球に存在している中で乳幼児は、最も神に近い存在として考えます。
 
 その人間の中で神に最も近い存在が乳幼児であると確認している園長ですから、乳幼児理解は、神の理解に繋がっていると確信しています。神に近い存在が乳児なのですから、乳児理解は、基礎的人間探求になると信じてきました。
 
 乳幼児は、ほんとうに神秘と不思議に満ちている存在です。その神秘と不思議に満ちている乳幼児と毎日24時間関わっているのですから、母親とはすごい存在としてみているのです。園長は、お母さんたちに頭が下がります。そして、神に近い存在である乳幼児、母親は、「理解に苦悩する存在」と毎日関わるのですから・・・!!!?????でしょう。
 
 その乳幼児理解の大変さ、神の神秘さを感じることがよく分かってもらえる例を言いましょう。
 
 乳児の超能力、神秘と不思議の世界を発見したことをここで紹介します。今年の『創造の森4月・園長の人間観とその実践』でも紹介しましたが、その後に新しい発見もあり、説明不足もありましたので、再度紹介します。
 
 園長自身、60歳ごろより乳児が人の目をジィ~と長い時間見るのを感じ、なんだろうという思いに駆られていました。乳児の目を長時間見るのが恥ずかしくなり、目をこちらからそむけてしまう事がしばしばありました。
 
 そのうちに、目を見ているときに、時々額を見ては、目を見ることが気になり始めました。はじめは、額と髪の境目を見ているように感じていました。しかし、顔を近づけて会話をしていた時に気づいた事がありました。眉毛と眉毛の真ん中より少し上を見ているのです。
 
 初めは分からなかったのですが、インドの人たちが額に赤い色を塗っている意味が何であるのかも知りたくなりました。
 
 その後、数年にわたり生後間もない赤ちゃんを観察していると、どの赤ちゃんも額をよく見ることを確認しました。額を見る意味が分からないでいましたが、ある時、ポール・トゥルニエ氏の「子どもは、大人から敬意をはらわれる度合いに応じて自分の人格を意識し、自分の人間としての尊厳を自覚して自分自身を尊重するようになります」という言葉の重みを実体験することになりました。
 
 『赤ちゃんは、敬意をはらわれる度合いに応じて、心地よさを感じ取る能力を持っている』ということの発見です。赤ちゃんが額を見るのは、前頭葉から何かを感じる能力を持っているのかもしれないという不思議を感じています。将来、脳生理学者と研究を重ねたいと願っています。
 
 トモエの赤ちゃんたちは、多くのお母さんやスタッフに心地よく関わってもらえるのですから、人間としての敬意と尊厳、信頼される心地よさを身につけていると思います。
 
 しかし、6ヶ月前後までは、額を見るのですが、その後見なくなる事に気づきました。なぜ6ヶ月前後に額を見るのをしなくなるのか不思議でした。私の観察の結果は、手足をよく動かし体も動くようになるから、額を見なくなるのかもしれないということです。もしもの、私の推測ですが、10歳になっても、額から大人の誠意の度合いを見抜く能力を持ち続けていたら人間として心の安定は、『本人自身も、親や大人』も耐え切れなくなってしまうかもしれないと推測しています。もっと心の病は多発してしまうかもしれないということです。
 
 乳幼児期に、『敬意と尊厳と信頼』を経験している子どもは、大人や仲間の敬意と尊厳と信頼の度合いを身に着けているのですから、・・・!!!???見抜かれている脅威。あるがままを受け入れる能力を持っている乳幼児の能力の素晴らしさを感じます。
 
 『私は、いつもスタッフと確認しあっていることがあります。乳幼児は、わたし達の心を見抜く能力を持っているので誠意を持って関わろうよ。神ではないので、毎日パーフェクトな関わりは持てないことを知り、自分の中にある素直な気持ちを、誠意を持って表現しようよ』と認識を高めることにしています。
 
 お母さんたちは知っています。生後まもなくトモエに来たこと、3歳から来た子の発達の違いを・・・。3歳以上から来た子は、『敬意と尊厳と信頼』を身に着けるのは、時間がかかるということを・・・。
 
 母親や父親、スタッフ、園長が、乳幼児の持つ能力の理解が深まる度合いに応じて『敬意と尊厳と信頼』がその子どもに伝達されるのです。
 
 乳幼児が持つ人間の能力のすばらしさを知ってしまった母親は、まず、自分に対する誠意(敬意・尊厳・信頼)の度合いを、認識させられるのですから!!!???脅威でしょう。
 
 トモエに通うことで、乳幼児の能力のすごさを知らされ、その能力に答えようとする母親は、乳幼児に日々鍛えられてしまいますよね。
 
 まだまだ乳幼児(人間とは何か)理解や母子関係の神秘の観察研究をしなければならないことを、日々痛切に感じています。
 
 ほんとうにお母さんの立場は、計り知れない世界があるのですよね。理解を深めなくっちゃ。
 
 園長は男。母親の気持ちで乳幼児とは関われない園長。寂しさもあるよ。乳幼児の心の理解が深まっても、乳幼児から母親と同じようには絶対に見てもらえない園長。乳幼児と目で深い関わり方ができても、乳幼児は、「自分を尊厳の目で見てくれる園長であっても」母親に対して「母親は、母親」絶対の信頼を持っているのです。
 
 母親の存在の偉大さには、園長は、頭が下がるのみです。
 
 母親は、命を生み出してくれた絶対の存在なのです。
 
 命を吹き込んでくれた存在なのです。
 
 母親なくしては、自己存在はないのです。
 
 ある人は、「年をとり母親を肯定できない人は悲劇であり、人生の敗北者になってしまう」と言っています。自分自身に命を与えてくださった母親です。母親に対する尊厳は、自分自身にあるのでしょう。例え大きな心に傷を与えられた母親でも、あるがままを受け入れ許せる心が人間には必要なことのように思えるのです。
 
 だって、母親にも乳児期があり、どのような人たちと心地よい心の交流が持てたのかで、気質や個性の基礎が創られてしまったのですから。本人だけの問題ではないのです。
 
 園長は、母親に「わだかまり」を感じている人には、「自分自身の存在に、敬意と尊厳と信頼」を持てるように寄添って歩むように努力しています。自分自身が母親なのですから。
 
 母親が、乳幼児理解の重要性を知り、生涯かけて意識し続けることは、心地よい心の交流が持て『幸せと平和な生活』の創造になるのです。その幸せの創造は、子孫に伝達され続けるものです。
 
 園長の実践は、女性であることを再確認してもらい、確信を持ち、誇りを持って生きてほしいと願って行動を起こしているのです。だって、胎児期から乳児期にかけて大きな影響を与えるのは、主に母親なのですから・・・。
 
 「なぜ、母親だけが重大な命の責任を取らなければならないのか」との叫びが聞こえてきます。だって、母親は、母親なのです。男が母親役はできないのです。
 
 男が命の尊厳、乳児の能力の神秘を知る体験が母親より少ないので、そのような叫びが起きるのでしょう。知った者から、伝え続けるしか方法はないでしょうね。
 
 園長も知ったのは自分だから、心地よい心の交流の福音は、伝えて共に幸せになりたいと願って実践しています。まず、行動して実践するしか方法はなかった園長でした。
 
 「園長の男性論は、あるのですか?」との叫びも聞こえてくるように感じます。現在は、やっぱり、園長は、『男は、黙ってモルツ』かな・・・。現在は、男性論は、まだ黙っていたほうがいいようですね。
 
 説明不足の文章に悩みながら、今日は、ここまでにします。
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