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2014年度4月号
 
春の教師研修会のおすそわけ
園長の体験的「人間探求」から
園長 木村 仁
 
Ⅰ 「人間として、何を考えて生きているのか」
私の体験から、人間理解は幸せのエキス
 
 「我々は、トモエで何をしているのか」の確認をしていきたいと思います。結論から言えば、
 
 ・まずは自分を理解すること。
 ・同時に自分が幸せだと思えるように、自分とかかわること。
 ・さらに、自分と心地よくかかわることによって、エネルギーが湧いてきて、人ともどれだけたくさん心地  よいコミュニケーションをすることができるかということ。
 
 これが基本であり、基礎であり、幸せの原点だと思って、私は生きています。そのためには、人間理解は心であり命であると思います。私が生きているうえで「人間理解」は、命にあたるのです。
 
 ポール・トゥルニエと園長の人間理解についての言葉は、第一に『理解するためには、理解したいと望まなければなりません』から始まります。
 
 大切なのは、理解しようと思う心がどこからきているか?です。
 
 自分をこよなく愛しいと思うか。尊いと思うか。命の尊厳を感じるか、そういうところから、もっと自分を理解したいと思う気持ちが湧いてこない限りは、「人間理解」というスタートには立てないと思います。
 
 私が15歳から60年、日々大切にしてきたのは、自分を理解したいと思う気持ちを毎日積み重ねているということです。この思いを生涯続けたいと願って生きています。思い続けることで、人間の神秘を探り、不思議を発見できる大切なポイントとなると思ってきました。
 
 人体の不思議について、血液の流れや成分、あらゆる臓器の働きや病、特に脳などは、まだまだ分からないことがたくさんあるのです。
 
 それと、「人間理解」、脳とか心とか魂とかあらゆる分からないことを理解したいと思わない限りは、『理解しようとする日々の意識が湧いてこない』と思います。
 
 そのためには私は、「自分を理解する」イコール「人間理解」につながるという意味では、このことは大切にしてきたことですし、卒園家族も在園家族も『この世界』をどこまで自分のものにしてくれるか、一緒に共有していきたいなと思っています。
 
 
Ⅱ 幸せの鍵は、あるがままの自分を受け入れること
 
 下記の言葉は、私の人生にとってとても大切であり、欠かせないものと思って生きています。これは、何十年も毎年私のノートの表紙の裏側に忘れないように、自分の生きた言葉になるように貼ってあるものです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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     『人間は、責任を持って、ある存在に自らをかかわらせることによってのみ、
                                   真の生命の湧出を体験できる』
 
 『ある存在』とは誰なのか? まず「自分」だと思っています。
 
 自分に責任を持って、自らをかかわらない限りは、身近な者に対しても責任を持ってかかわることができないと思います。いかに自分に責任を持って生きているか。自らかかわらせるということは、少しでも自分に素直に生きること。素直に表現できること。少しでも、自分の問題点を修正しながら、より自分の「言葉」と「行動」にどう責任を持てるか。
 
 私は、キリスト教に20歳で入って、5年間クリスチャンをして、5年間神学校で学び、10年間牧師、教会付属の園長として多くのことを学ばせていただきました。現在もこの20年間の学びは生きています。土台となっています。
 
 20年でキリスト教を卒業させてもらいました。牧師として、聖書を学びそれを語るものとして、“生きた言葉を話したい”と強く思っていました。植えた種が芽を出して成長し、花が咲き多くの実を残すという作物の原理を考えてみても、30代では十分に生きた言葉が話せないことに苦慮して、それを40代に持ち越すのは嫌だと思っていたのです。
 
 そこで、沖縄から北海道までまわり教育事情を調べ始めました。会いたいと思う市長、有名な牧師や大学の教授などにも会いながら修行して歩きました。あらゆる分野で強く生き抜いた人々の本も読みました。
 
 38歳の時に2か月間アメリカの共同体をまわって、たくさんの人と出会って、多くを学んできました。助け合って生活する環境の創造によって、生きた言葉を話し、生きている行動ができるんじゃないかと思って帰って来ました。
 
 2年後に自分が自分らしく生きられる生活環境を創ろうと、40歳で奮起して、生きた言葉を話し、生きている行動ができるように森の中に家族が参加できる幼稚園を創り、もっと森の中にと願い46歳でトモエを創ったわけです。
 
 本当の命の息吹を感じて35年、それは40歳までの下積みの生活があったからこそ、このような行動ができたのだと思います。
 
 その後、日々ほんとうの生命の息吹を自分の中で感じながら、人にも、生きた言葉を話せるようになり、生きている行動ができるような自分になりつつあることにとても幸せを感じています。そのことに満足をせず、現在以上に生きた言動をもてる自分になりたいという思いは、息をひきとるまで、求めていきたいと望んでいます。
  
 自分だけでは解決できないことが多くあり、多くの人に助けていただいたり、一緒に歩んだりしてきました。人間では、分からない世界がいっぱいあり、今後も、「知りたいという好奇心」をもって生きたいとも思います。キリスト教の信仰という意味ではなく、『我々が解決できないことを解決してくれる神の介入を待つほかない』という言葉は、人とかかわっていても、自分の能力ではどうにもならないことがあるのです。そのような時こそ、静かに話をして、静かに待って呼吸を整えて、それで自分の中から何が湧いてくるか、これまでの出会いや経験を通して知らず知らずのうちに自分の中に蓄えられたエネルギーを見つめるのです。自分の内なる魂に聞こうとしていたら、今までに聞いたことがない、表現したことがない全く新しい言葉を聞くことができるのです。ある時には、大自然界であったり、人の言動であったり、色々なことを通して身についたものが自分の中から湧き出てくるのです。人間って神秘で不思議なものですね。
 
 『人間理解のための基礎』は、どこかの神を信じるのではなく、内なる神秘と不思議と宇宙の秩序を考え、人間ではどうにもならない世界があることを知ることから始まるのです。私は、人類とすべての宗教をつつみこむ神を信じて生きているからトモエができたのです。もし、真実な神を信じていなければ、一人一人を大切にして、個々の表現ができる生活の場を創ることはできないでしょう。『人間でははかり知れない壮大な存在』を信じていなければ、心身を病んでしまって実行できないのです。
 
 
『信仰とは、我々が解決できないことを解決してくれる、この神の介入を待つことにほかならない』
 
 という言葉の意味は、“棚ぼた式”ではなく、自分がベストを尽くして努力することで、その後、自分から湧いてくるもの、あるいは、求め続けることで与えられるもの、湧いて出てくるものがあるのです。生命は、死ぬ瞬間まで、新鮮な泉が湧き出るものです。
 
 
『人生を受け入れることは、断念し闘争を止めることではない』
 
 とありますが、人生を受け入れること、良いものも悪いものも受け入れるということはとてつもなく大変なことです。さらに今の時代はもっと大変です。母親たちの相談を受けていると、戦後からの生活環境、精神環境の悪化が読み取れます。戦後から、学歴社会、勉強ができることが良いことであるかのように流れてきたこの70数年。大人は、勝手なことを言って子供に勉強を押し付け、自分ができない理想を子どもたちに求めてきたのです。大人たちが、死んだ言葉を言い続けたとは言わないまでも、あまりにも無意識に無責任に言葉を話し、自分勝手な言動をすることで、何代にも渡って子どもに悪影響を与えつづけるのです。まさに 現代社会は「文明砂漠・心の砂漠化」になっていると思います。
 
 そのことを考えると、少しでも早く、1人でも多くの人が、このことに気付けるように、世の中に伝えたいのです。私たちには、その役目があると思います。
 
 “生きた言葉”と“生きている行動”で、責任をもって自分にかかわれるような人間をつくることがトモエの目的です。
 
 私にとっても、自分の人生を受け入れることは苦痛で悲鳴を上げることもありますが、今まで以上に生きた言葉と生きている行動をとれる人間になりたいと夢を持って歩みます。
 
 
『人生とは、自己自身に忠実であろうとし、自らの信念と能力に責任を持とうとする闘争だ』
 
 どういう意味で『闘争』という言葉を使ったのか、“原語”の意味を知りたいですね。『闘争』という意味は、自分の弱さとの闘いだと思うのです。自分自身に忠 実で、誠意を持ってかかわろう、責任を持ってかかわろうとすればするほど、自分が築きあげてきた信念を常に新しく変えるしかない自分の弱さとの闘いあるのみです。いつもクリエイティブな信念と能力、責任を持って歩む日々の闘いだと思います。
 
 
『自分の人生を真に、そのまま受け入れることは、何と難しいことでしょう』
 
 良いものも悪いものも受け入れながら、自分の人生を歩むことはどんなに大変なことか。
 
 交通事故で首から下が動かなくなった人、パラリンピックに出ている人などを見ていると努力して多くの人に夢と勇気を与えていると思います。自分のあるがままを受け入れて生きている人たちが、毎日いきいきと生きているのを知ることで、私も勇気を与えられています。
 
 自分の人生を受け入れることは、どんなにつらいことなのか。
 
 
『しかし、すべてはこの受容にかかっており、それこそがまた幸福の鍵である』
 
 ということが、大切ですね。
 
 自分と心地よくかかわることが幸せだと言いましたが、幸福の鍵はそこにあるのです。あるがままの自分を認めながら、どう自分に責任を持ってかかわらせていくのか。
 
 
『つつしみのない思考は、人間を非人間化する』(園長の言葉)
 
 『つつしみのない思考』というのは、自分自身にどこまで誠意を持ってかかわろうとするのか。人間だからどこかで、まあいいかと自分をごまかしてしまうこともあると思います。
 
 道路にゴミのポイ捨てをしたり、夜中に住宅街で騒いでいる若者がいます。それは本人の問題ではなく、親が何を伝えてきたかに問題があると思う。ポイ捨てした若者も自分の家の玄関前で見ている前でゴミを捨てられたら「何するんだ」と言うと思います。
 
 『自分に責任を持ってかかわらせる』自分の言葉、行動を見つめるという人生の基本・人間教育が現代社会には失われてきているのでは・・・
 
 生きた言葉、生きている行動がどこまでできているか?自分の言動が自分の代だけでは終わらないということが、歴史的な流れを調べてみるとわかります。
 
 今を生きる人たちは、自分の言動が、子孫にどのように伝わり、残っていくのか想像できていないように思えるのですが・・・
 
 ※研修で話したことに、少々書き加えました。<続く>
 
 トモエの生活は、それぞれがどれだけ人間理解(自分も含む)を深めるためにあるのです。自分理解・人間理解は、人生の大切な幸福の鍵となるのです。
 
 
人間は、責任を持って、ある存在(=自分、隣人)に自らをかかわらせることによってのみ、 真の生命の湧出を体験できる。
 
信仰とは、我々が解決できないことを解決してくれるこの神の介入を待つことにほかならない。(解決=自分の中から湧き出てくる新しい自分、今までの体験、人との出会いなどで学んだことが内在している中から無意識に出てくること)
 
人生を受け入れることは、断念し闘争(=前進、前向き)を止めることではない。
 
人生とは、自己自身に忠実(=誠意)であろうとし、自らの信念と能力に責任を持と うとする闘争(=自己との闘い)だ。
 
自分の人生を真に、そのまま受け入れることは、何と難しいことでしょう。しかし、すべ てはこの受容にかかっており、それこそがまた“幸福の鍵”である。
~P・トゥルニエ氏~スイスの人間医学者
 
つつしみのない思考は、人間を非人間化する。~園長
 ※( )は、園長の説明
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