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月に一回発行される園内便り「創造の森」に掲載されている園長 木村 仁の父母に向けてのメッセージです
2014年度9月号
「母たちの勉強会「自分を知る」(園長の講演より)」
第3回 素直に生きる(自分の人生) 5月23日(金)12:45~
キーワード
人生←――自分のもの
自分に素直に生きることがポイント
大人には素直という言葉がない?
子どもに対する言葉と思っている?
自分で責任を持って日々生活する心地よさと厳しさ
|| (自分を感じる・受け入れる)
自分の人生を創造する
『教育はどのようなものであれ、内面へ向かう旅である』
バーツラフ・ハベル(『心と治癒力』より)
園長
改めておはようございます。
皆さんは、大人になってから、「素直」という言葉を自分にあてはめて考えることがありますか?「素直」という言葉を自分にあてはめて考えるということは、大人はほとんどないんじゃないかと思います。「素直」は、子ども用語だと思っているのではないでしょうか。大人は子どもに対して「素直になって」と言い、教師も生徒に「素直になって」と要求はするけれども、自分に対して「素直」という言葉を使うことがあるでしょうか。
私は大人じゃないと思っています。いつも子どもでありたいと思って、いつも子どもの心を失わないように努力しています。「あなたは素直に育ってね」とか「素直になってね」という言葉は、子どもに要求する言葉としてよく使われますが、私は15歳くらいからずっとその言葉を自分にあてはめて、今でも考え続けています。
この「素直に生きる」=(自分の人生)というテーマはあやちゃんが、創造の森から引っ張り出してくれたようですね。テーマは「自分を知る」でしょ。素直になれなかったら、自分が分からないと思うのね。「自分に素直になりたいな」と今日からいっぱい思い続けてほしいんだけど、死ぬまで。
今も、話をする前に、顔を冷たい水で洗って、髪も水でぬらしてとかして、少しぬれた冷たい手で首すじをさする。そうすると、すごく気持ちが良い。私はそれをよくするのね、毎日ね。お話する時だけじゃなく。そしてトイレに行った帰りに、大きな鏡で、全体を見るのではなく、目を見ました。朝、顔を洗って歯を磨いてという時も、私は目を見ることにしています。皆さんは顔全体を見るでしょ。色々注意しなきゃいけないところもあるでしょうけれども。私は目を見ることにしています。目がどこまで素直になっているのか、今はどうなのかを考えています。それは、目の感覚が一番すぐれている時期の生まれて数十日の赤ちゃんとかかわって学んだことなんですね。
昔から「目は心の鏡」と言われているように、赤ちゃんを通して私の誠意の度合いを知らされて、50歳以降から日々誠意を持って、今までのね、人間観察、人間探求の結果がどう表れているか、を感じながら赤ちゃんの目を見ています。赤ちゃんの反応を通して、私の心の誠意の度合いが見えてくるのです。それは、園長だから見えると思わないでね。見ようと思っていれば見られるようになるのです。あきらめないで見ようと思っていれば。
どうしてもパリに行きたいと思えば、お金をためて、色々なことを調べて行くための準備をすると思います。パリでどんなものを着ようかとか、どんな帽子をかぶろうかとか色々なことを考えて行くと思うのね。メキシコに行きたい人はメキシコ、マチュピチュに行きたい人はマチュピチュ。そこに行くための準備をすると思います。
私はスタッフにもよく言っていますが、特に皆さん、お母さん方にお願いしたいのは、旅行でもちゃんと計画を立てて準備をするのだから、一番大切な人生のこれからの設計を立ててほしいということです。人生設計を立てたのと立てないのとでは全然自分の人生が違います。お母さんたちの働き、存在の大きさを考えると、何十年、いや何百年、あるいは何千年と、あなたたちの目の輝き、心の窓である目が輝いて人生を歩んだことは、子どもや孫たちに残り続けることだと思います。母親の目の輝きが幸せと平和の礎になると私は信じているから、ここまでお金がなくても、自分の才能がなくても、ただその重要性を感じて歩んでいます。
そのポイントは、自分の心が、目が、素直であるかどうか、目を通してどう感じるかです。今晩から鏡に園長の顔が映るからね。「目を見よう」と思っちゃうんじゃない?そういう人が出てきてほしい。目がどこまで日々輝き続けるのか。今日もあるお母さんの相談を受けていたら、「園長の目きれいだもんね」と言われて「ありがとう」と言ったんだけどね。年を重ねる程、どう自分の目が輝いているのか、素直に人生を生きているのかどうかを確認して生きています。
本題に入りたいと思うのですが、先日トモエを見学に来たこたきあやさんが言うのです。「私、男か女か当ててみて」と。そんな楽しい女の子が2日間来ていたのですが、彼女から次のようなメールをいただきました。
「皆さんの子どもや保護者に対する温かいまなざし、私は決して忘れることができません。
子どもたちが素直にまっすぐ生きる姿
保護者の方々が楽しみながら子育てをされている姿・・・
卒園児の保護者がいらっしゃっていたり、小学生が遊びに来ていたり・・・
もう幼稚園を超えたコミュニティーの場だったと確信しております。」
さらに、元働いていた幼稚園などの仲間の人たちに、トモエのことを自分の自慢話のように話させてもらっているという内容でした。
本当に子どもたちが素直に生きているということを、見学者の方も感じて涙して下さっています。
今もね、トイレの窓が開いていて外を見たら、男の子2人でホースの取り合いをして泣き叫んでいました。ホース1本の取り合いでも、一方は泣いて訴えるし、一方は泣かないでたたいているし。周りで見ている親はニコニコしている。自分の子じゃないから。自分の子だったらハラハラして見ていると思うけど。でもトモエはそれが許されるところでしょ。自分を素直に表現する。本音でぶつかり合う。今回の「自分を知る」という勉強会の1回目の「自分を感じる」というテーマの時に話したように、子どもたちの年齢が低いほど、1つ1つ、色々なことを感じて、風船のように、球体のように上、下、斜め色々な方向からものを感じとっているのです。
乳幼児期から、肌に触れられたり、目で感じたり、五感を通して、子どもは本当にすべてを球体の感覚で吸収するかのように、彼らは自分がどういう人間としてかかわってもらえているか、素直に大人たちが自分を認めてくれているかどうか、問題点は問題点として認めた上で、どのような形で人間として認めてくれているか、それをじっくりと感じていると思うのね。目、耳、口、鼻、肌を通して色々なことを感じています。幼児期からたくさん感じれば感じるほど、感覚の豊かな子になって幅広く深いものの考え方をしてくれるのです。
H(卒園生)も昨日来て、本当に良い感じの自己紹介してたよね。側転して「私、卒園生の高校2年生のHです」ってね。彼はちょっと難病に罹って入院したり、骨折したって言ったかな。カナダに留学しててね。お母さんとひょっこり来て「園長、自分の心のリハビリにトモエに1か月来たいんです」。自分の人生をしっかりと見つめて、自分と向き合っていなければ、自分から来たいという意思は表現しないでしょ。
今までも、人生に悩んでトモエに来た卒園生たちは、大学生、高校生、中学生も一切スタッフや私には相談しません。自分たちで、自分を見つめて、整理して、調整して「園長、また来るね」って言って帰るけれども、また来ない、そういう子は。自分で解決してしまっている。それは、幼児期に本当に本音を出して素直に自分を表現して、自分を見つめることをしたからです。幼児期に、多くのスタッフと親たちにも自分を受け入れてもらった。勉強会の第2回目では「受け入れる」というテーマで話をしました。トモエの卒園生は、自分の人生をしっかり見つめて、受け止めて、受け入れて、それから自分はどうしたらいいのかっていうことをちゃんと考えて結論づけられるのね。だから卒園生が悩んでトモエに来ても、今まで1か月、2か月通った大学生もいますが、自分で整理して、去っていく、そういう場所になっているんですね、トモエは。
第2回目で話したように、卒園生は、あるがままのマイナスもプラスも受け入れ、本能的にマイナスもプラスもバランスよく伸ばして生きているのです。だから卒園後も小学校1年生、2年生、3年生になっても、特に母親が子どもの気持ちを理解しようと寄り添っている子どもほど、学校とトモエの違い、学校の大人たちとトモエの大人たちとの違いをはっきりと感じて当たり前ですよね。寒い日と暖かい日があるように、晴れた日と雨の日の違いが分かるように、子どもは特にその違いが分かるのね。本来、子どもは空気をよむすばらしい能力を持っているのです。
しかし、今の世の中、発達心理学や精神医学、色々な学会に行って聞いてきましたが、乳幼児観が成立していないんです。牧師を10年やってみたけど、宗教も含めて、子ども観が成立していません。乳児とはどういう動物なのか、幼児とはどういう感覚を持ったものか本当に分かっていません。分かっていたらこんな社会にはなっていないと思います。
『心と治癒力』という本の中で、バーツラフ・ハベルというチェコ共和国の初代大統領だった人が『教育はどのようなものであれ、内面へ向かう旅である』と言っています。
だから、人生の旅は心の旅だと思うのね。だとするならば、素直に自分を見つめて、素直にマイナスもプラスも見つめながら、バランスよく生きる時に、自分を受け入れ、素直で素敵な自分をそこで発見できると思うのです。
だから、お母さん方によく言うのは、子どものために生きると、必ず子どもに結果を求めて要求する大人になってしまうから、子どものために生きないでということです。まず、自分のために自分を受け入れて歩んでいれば、結果的には子どもも自然に受け入れる人間になれるよ、という話を良くするのね。私自身の体験的人生観です。
辞書で「素直」という言葉を調べてみると、「性格や態度にひねくれたところがなく、あえて人に逆らったりしないさま」って書いてあるんだけど、「性格や態度にひねくれたところがなく」なんて、ひねくれていない人なんていないんじゃないかな。ね、どこかひねくれているでしょう。背骨だって曲がっているんだから人間は。心が曲がっていて当たり前だと思うんだけどね。思いません?この辞書の言葉がちょっとひねくれているような気がします。態度悪いような気がするんだけど。
私も、あえて、人に逆らうのが嫌です。人は人としてその人の考え方は認めます。その人の考えを受け入れるのではなく、認めた上で、わかりますか?その微妙な違いを。色々な人の意見を聞いていたら八方美人になっちゃうんだよ、園長は。“ばんけい幼稚園”を創る時に、八方美人にならないで、どんな人が来ようと、どんな哲学者が来ようと、知識のある人が来ようと、人間について、人生について語れる人間になろうと思いました。そうでないと、八方美人になってしまうからです。八方美人になると色々な親の要求を聞くようになるんです。それが今の幼稚園、保育園でしょ。朝7時半くらいから子どもを集めて、バスでぐるぐるまわって玄関先まで迎えに来る。また言っちゃった。私はそれを認めています。認めた上で、その人の考え方はその人の考え方として、その人はそう考えているんだということを認めるだけでいいと思います。それを自分の中に入れて、この人の考え方はこうなのか、あの人の考え方はこうなのかとやっていると、八方美人になって自分が無くなっちゃうんです。そうすると、自分にも素直になれません。自分が何なのかも分からなくなってしまいます。現代社会の環境は、赤ちゃんの時から、暖かな空気がある家庭環境が少なく、地域社会で助け合う環境も少なく、学校教育も「内面へ向かう旅」そんな学校教育はあるのかな。一生懸命心の旅ができるような教育を、今の大学の教育学部でもしていないと思います。なぜかというと、大人がそのことに気が付いていないからです。
私は、40年前に世の中がおかしくなる、危ない、人間がおかしくなるぞと思いました。そして今、色々なお母さん方の話を聞くと、生まれた時から、自分を見つめ、自分を知るための乳幼児期の環境が無かったから、そう育ってきちゃったから、自分を知るとか、自分を受け入れるとか、素直に生きるとか聞いても、最初、外国語に聞こえていたんじゃないかと思います。だけど、直感で園長は信じられると思ったから来たと思うんです。最初は、園長の話がちんぷんかんぷんで分からなかったかもしれません。理解できるまでに、何年もかかった人がいっぱいいます。5年も10年もかかった人もいますよ。トモエを理解するには、そんな簡単なものじゃないのね。私自身、60年かけて“ここまで”歩んできたのですから・・・
ただ、皆さんのお子さんはここで、ここの空気を吸って、いっぱい本音を出して生きることで・・・素直に表現することを認めた親がいないと、子どもは素直に表現できないわけでしょ。本音も出せないわけでしょ。
卒園生の弟で、DVDにもなっているアニメ「イヴの時間」(吉浦康裕監督)というのを創った人がいます。今度その人に言って、乳幼児は、シャツの胸を開けたら、相手を映し出す鏡を持っているというシーンのあるアニメを、私の原作でつくってほしいと思います。子どもたちは、みんな胸に鏡を持っています。皆さんは鏡を持っていますか?ハンドバッグには入っているかもしれないけれど。胸に鏡を持っていますか?
子どもは、どんなに、バカとか、あっち行けとか、お前は友だちじゃないとか言っていても、自分が言ったことが全部相手の胸の鏡に映って、自分の姿を見せられているのです。けんかしようと嫌なことを言われようと、子どもたちは自然に受け入れているでしょ。それは、すごいなと思います。人間の能力のすごさだと思います。
みなさんも夫や妻に、色々な言葉を言ったり、態度をとったりした時に、夫や妻の心の鏡に自分が映っていることを感じて生きてみたら変わります。なぜかというと、空気を読むからです。子どもたちは、自分が言った言葉で、ちらっと相手が嫌な思いしたとか、まずかったなとか、瞬間的に目を通して、彼らは分かっちゃうのね。特に赤ちゃんは。そういう人間関係を幼児期から持っていれば、人と付き合うこととか、夫や妻や子どもと付き合うことが苦痛だと思わなくなります。人と付き合うことが苦痛なのは、自分の言ったことを聞いてほしい、夫や妻や子どもが自分の言った通りになってほしいと思っているからです。自分の言った言葉がどんなに命令的で強制的で嫌な言葉だったのかを感じる心があれば、「ごめんね」と言ったり、「ちょっと感情的になっちゃったの、ゆるしてね」と素直に子どもにもあやまることができます。お母さん方によく言うのは、素直を子どもと共有して、素直が何であるのかを子どもが感じ取れば、言葉では言わないけど、今日のお母さん素直、素敵、やっぱり好きだってなるんですね。自分が素直で素敵な言葉を遣い、まずいことを言っても「ごめんね」と言ったり「あっ、今の失敗しちゃった」と素直になることで、子どもは素直の素晴らしさを、母を通して父を通して分かるのです。
子ども同士で『きらいだ』と言った時に、母親の方は「あの子は意地悪で『きらいだ』と我が子に言った」と言って傷ついている。「でもうちの子はその友だち好きで遊んでるし『好きだ』って言うんだよ、それがわらない」って母親は言うのね。第2回目に話したように、大人の物差しで子どもの世界を測っても測れません。絶対に測れない。もっと生ゴムのようにやわらかな、丸いものでも三角でも四角でも色々なことをね、調べられるような、測れるような自分になりたいと思えば、なれるんです。この人には才能があるからそうできたと思ったらだめだと思うのね。私は早く年を取りたかった。素敵な大人になりたかった。そういう思いがありました。
でね、もう泣けちゃうんだよな私な。今日、ふと思い出して、パソコン便利だね、すぐ引っ張り出してもらって。チャップリンの1936年製作の映画『モダン・タイムス』。見てみて。オートメーション化する時代。大量生産する時代、人間は機械に飲みこまれて、人間性の喪失に驚嘆する。チャップリンが描いたもの。1936年、戦前ですよ。私が生まれる2年前に製作された映画です。最終的には彼は町工場の機械の歯車に飲みこまれていくというシーンもあるんですけれどね。
私は中学生の時に見て、30代40代とずっとこのチャップリンの映画のことを思い出しながら、文明社会が心を失わせ、心が砂漠化し、自分も分からない時代になることを苦慮して生きてきたのです。子どもの心が分からないで、母として子孫にどんなに重要な影響を及ぼす存在であるのかも分からないで、子どもを産み育てていく、トモエに入れたら、素直に表現し、ストレートにものを言う、そのパワフルなエネルギーにアップアップしているお母さんたちでしょ。私はすまないと思う。申し訳ないと思う。トモエを創ったエイキョウの大きさに苦しんでいます。だから毎日いつでも「えんちょー」って来たら「あいよ」って受けられるような状況をつくっています。
でも、本当に素晴らしい子どもたちを受け入れる母に頭が下がります。それどころか、助けていかなきゃならないと思います。人間は、文明社会になって、私の中学時代から考えると60年以上たって、もっとひどくなっていると思います。お母さん方の相談を受ければ受けるほど、自分を見つめ、自分を愛すること、自分がどんなに素晴らしい人間であるかも感じないで生きていると感じます。まわりのものに振り回されて、情報がありすぎて、自分を見つめることがないのです。
さっき千歳から通っているお母さんと話したのですが、千歳から来る往復2時間の車の中で自分のことを考えたり、子どもと楽しく話す時を持てたりしていると言っていました。私も必ず朝、15分20分歩いています。ちょっと時間があれば、遠回りして中ノ沢公園をぐるっと回ったり、急いでいる時は近道したり、歩くことで色々な発想が出てくるのです。考える時間、静かに考える時間がとっても必要なのね。
もう一つチャップリンの映画で、戦後7年でつくられた『ライムライト』(1952年)という映画があります。この映画は私が中学2年生の頃に横浜で上映されました。この映画も中学時代に見ているんです。これは道化師のお話です。63歳のチャップリンが自分を道化師にオーバーラップさせながらつくった映画なんです。
この談話室の鉄骨の後ろに道化師の絵や飾り物がいっぱい置いてありますが、私は、とっても道化師が好きなんです。体が悪かろうと、精神的に調子が悪かろうと、笑顔で表現しなければならない、悲しいピエロなんです。自分も今まで75年、笑われようと、ばかにされようと、常に笑顔で、ピエロのように生きてきました。まあ時々ピエロをやるけどね。みんなを笑わせ、楽しませる。私も一緒に楽しく生きたいから。だから素直に、いつも子どものように表現して生きようと、今も思っています。(子どもは人を笑わせようと努力しています。)
辞書には、「素直」というのは「穏やかで人に逆らわないこと」と書いてあります。私も多くの人たちに、逆らわず、争わない。相手の考え方は、一応その人の考え方だと認めるけれど、自分のファイルの中にはすべてを入れないで、良いものだけを入れます。自分が今食べられるものだけを、自分のファイルに入れておけば、それは必ず、何年後か、何十年後にエネルギーになる、資料になるのです。自分を知るためには、いっぱい色々なことを感じさせてもらい、あるがままを受け入れながら、そして素直に自分自身のあるがままも認めながら、受け入れながら、どうプラスを伸ばしていくか。人生の大切な設計をしながら、どんな人間になりたいか考え続けていたら、自分の可能性をあきらめなければ、どんな人間にでもなれます。
あるお母さんが、下の子を卒園させて6年経って、「園長、ちょっと見て」とカードを見せてくれました。玉川大学の通信教育で勉強したいということでした。「おめでとう、よかったね」と一緒に喜びました。「娘たちへのプレゼントになるよ」と言いました。大学を出てからが本当の勉強のはずなのに、大学を出てから勉強しなくなるというのは、あまりにも幼稚園、小学校時代から、勉強しろ、勉強しろと言われ過ぎたからだと思います。人のために勉強する癖がついた人は、本当の人生である30代、40代になってから挫折することが社会的に相当増えています。
自分のために勉強した卒園生の子どもたちは、小学校1年生であろうと2年生であろうと、確実に自分の足でしっかりと歩む子どもになっています。1歳であろうと3歳であろうと確実に自分の人生を、地に足をつけて、自分の足で一歩一歩歩みたいんだ、失敗しようが傷つこうがちゃんと自分の足で歩みたいんだと思っているのが、子どもたちなのね。そういう子どもたちを今の教員たちはどこまで認めているのだろうかと思います。
ある教育講演会。またため息が出ます。講師は北海道大学で人工知能の研究をしている人だそうです。その人は、人間を理解できて、空気が読める機械を創ろうとしているそうです。うーん?と思いました。皮肉って言えば、人間を理解できなくなって、相手の空気も自分の空気も読めなくなったから、機械でものを知ろうとするのか?と思ってしまいました。これは介護のためのロボットだと思いますけどね。
だけど、人間が理解できて空気が読める人間を創ろうとすることが、今の社会や教育で、どこまでできていますか?今の社会で、大切なのはあなただよ、あなたの隣にいる人だよ、ということをいつもいつも言いながら教育をしている人はいますか?世界の教育を変えなきゃダメよ。皆さんが想像している以上に10年後、20年後はひどい社会になります。自分と我が子を守るのは、学者でも政治家でもない、お母さんたちですよ。我が子を守り、灯台のように「危ないよ、ここに来たら危ないよ」という道しるべにならなきゃダメ。それができるのは、お母さん方だよね。今の社会に立ち向かいながら、子どもを守り、子どもを通して自分を知って、人間の素晴らしさを子どもから学んで、自分も一生懸命自分の人生設計をして、50年後、100年後までも自分の思いやりや自分を知ることがどんなに大切かを子孫が身につけていれば。想像してみようよ。100年後、200年後さ、空の上から一気に色々な地球が見られて、人間の営みも感じて、天使か預言者ガブリエルか知らんけどさ、わが子やわが子の子孫が素敵に生きているなと思うことを想像してみて。楽しいと思うのね。死んだら終わり?そのまんま?むなしいよな、そんな考え方。死んでもさ、自分の暖かい想いとか、失敗だらけの人生だけど一生懸命生きようとした大切なものは、孫やひ孫や玄孫に移ってるなと思うのは楽しいと思わない?
私は孫が9人いますが、やっぱり一人の人間として、子どもたちに与える影響は大きいなと思います。女性が与える影響はもっと大きいのね。誇りを持ってください。これからまた、女性が何であるのかを、具体的に勉強する時も持とうよ。認識を高め、確信を持って、誇りを持たなきゃ、女性は。命を産むんだもん。政治家や男が守れますか?子どもを産めますか?私は、実践してるからね、産めないのを。
全く、憎たらしくなるよ、ふーちゃん。お腹が大きくなって「パパ来るまで待たせる」いい加減にしろって言うんだよ、パパが明日来るまで産まないって一生懸命子どもに暗示かけてんの。あー悔しい。本当に冗談じゃない。命ってとても尊いものだよね。私たちの命を考えたらわかるでしょ。我が母が、我が父が、少しでも素敵だったらどう?いいでしょ?じゃあ、自分がなろうよ、そういう人間に。
教育とか、生活は心の旅なの、ね。苦しいこと、悲しいことあってもさ、園長がピエロが好きなのはそこなんです。泣いても、笑っても、悲しんでも、一生懸命自分も笑わせ、人も笑わせるような生き方をしたいなと思っています。ほんとにね、こうして毎日来ていて、私に赤ちゃんたちがすごく良い表情してくれるのを見てて、いつ死んでもいいと思ってます、満足です。
おわり
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