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2014年度7・8月号
 
母たちの勉強会「自分を知る」(園長の講演より)
 
第2回 受け入れるということ(向き合う) 5月16日(金)12:45~
 
キーワード
乳幼児はあるがままを受け入れて育っている
親の信頼を受け信頼される喜びを身につける
    ↓
その信頼は自己肯定を生み出す
 
園長
 改めて、おはようございます。
 この勉強会では、「自分を知る」という題をいただいたのですが、司会者の方、自分を知るためのテーマとして、「自分を感じる」「受け入れる」「素直に生きる」というこの3つのテーマをどうやって選んだのですか?
 実は、これら3つとも関連性のあること、自分を知るための基本的なことだから、良くまとめてくれたなと思います。
 
 
司会 山田綾子さん
 ありがとうございます。
 昨年度の「創造の森」をすべて読み返して、どういったことを園長にお話しいただきたいのか、自分なりに考えました。日常のことでイライラしたり、子どもとのことや夫婦のことで色々な困難にあたった時に、いつも振り返るのは自分のことなので、「自分を知る」ということは大切なことなのかなと思いました。
 3つのテーマに関しましては、スタッフにもご相談して、「『自分を知る』ということには段階があるのではないか」と正人さんにアドバイスいただきましてこの3つに決めさせていただきました。
 
 
園長
 話せば話すほど、このテーマをいただいたことを感謝しています。なぜかというと、これはとても基本的なことだからです。
 今の時代、基本を失っています。
 人間は、なぜ生きているのか、なぜ生活するのか、なぜ結婚するのか、なぜ子どもを産むのか、人間の一生の課題であるその基本がほとんど失われてきています。うわべだけで生きてしまっているように私は感じているのですが・・・
 そのことに問題を感じた私は、30歳からコツコツと、子どもたちが、日々考えている疑問「なぜ?」「どうして?」ということを現在も求め続けています。これからも100歳、120歳まで生きていても「なぜ?」「どうして?」は私の人生からは消えないだろうと思います。なぜなら、“常に基本を考え続けられる人間になりたいな”と思うからです。
 
 最初に話したいのは、先週話した「感じる」ということと「受け入れる」ということは、一体化したものなのだということです。
 赤ちゃんは、子宮の中にいる時からどのように感じて生きているのでしょうか。
 よく胎児が指をくわえている画像があります。ある学者は、不安だから指をくわえているのだと言います。しかし私はそれとは違う考え方を持っています。私は、もうすでにおっぱいを吸う訓練をしているのではないかと感じています。
 あるおもしろい産婦人科の医師が、生まれたばかりのへその緒がついたままの赤ちゃんが、自力でおっぱいを探しあてられるかという実験をしようと、お母さんのお腹の上にのせたそうです。赤ちゃんは、20cmか25cmの距離を29分何十秒かかかって移動しておっぱいを自分で見つけ出したそうです。生まれたばかりの赤ちゃんもそれくらいの能力を持っています。
 ある番組で、助産師さんが仮死状態で生まれた赤ちゃんの足を持って、背中をパンパンパンと思いきりたたいている映像を見たことがあります。赤ちゃんは息をしていないから、だらーんとしてしまっているので、助産師さんが必死に、水を口に含んで赤ちゃんの体にピューッと吹きかけているのです。まるで侍が刀に水を吹きかけるようにしていました。これは時代劇を見ていないと分からないと思いますが。
 私の中学時代の教科書は映画でした。色々な映画を見ました。「私の人生の教科書は映画である」というのをいつか書きます。中学2年生、3年生の時ミュージカルから娯楽映画、クラシックの物語、あらゆる分野の映画をすべてといっていいほどたくさん観ました。映画によって、人の様々な生き方について、人生について色々な勉強ができました。私の人生に、現在も生かされていると言えます。
 先ほどの話に戻りますが、その赤ちゃんがギャーッと、やっと息を吹き返して泣きました。その子が1歳くらいになってから、助産師さんが「どういうわけか、私の顔を見ると蹴飛ばしに来る」とニコニコして言っていたそうです。その人は、生き返らせるという信念のもとで真剣に体やお尻をたたいたり、心臓マッサージしたり、水を吹きかけたりして生き返らせたわけでしょ。赤ちゃんが無意識の中でそのことを感じていたのでしょう。助産師さんは、蹴飛ばされても、それを彼の愛情として受けているからニコニコしているわけですよね。人間っていうのは、本当にすごい能力を持っているなと思います。
 私は、その出来事も、生まれた時から感じ取る能力がすでにあるということをあらわしていると思います。
 
 「受け入れる」という基礎的な意味は、すべての人間には最初に胎児期、乳児期があり、その時期は無意識の中ですべてを受け入れて生きているということです。産まれるときの赤ちゃんは、狭い産道を通るときの苦しささえ受け入れているのです。先の例の赤ちゃんは、助産師さんに叩かれ水をかけられたことも、受け入れていたのです。羊水の中の心地良さ、安定感、守られているという安心感から心には余裕があるでしょう。しかし時に、お母さんの不安やストレスは胎盤を通して胎児にも伝わっています。産まれてからも、腕に抱かれて見つめられ、話しかけられる心地よさ、様々な世話による満足感、受け入れられているという安心感から心には余裕が生じているときもあれば、そうしたことが欲するようには与えられないこともあって、不満足感やストレスさえ感じているときもあるでしょう。赤ちゃんは胎児期を含めて、産まれてすぐからそうした「すべてを受け入れる」という経験をしてきていると思います。
 当然、お母さんは完璧な神様ではないのですから、調子が良い時と悪い時があり、夫とコミュニケーションが上手くいかなくなったり、体調が悪かったりしてイライラすることもあると思います。にもかかわらず、すべてを受け入れる乳児に毎日関わるのですから、母親の役割の大変さは相当なものだと思います。、私には、まだまだ分からないことがいっぱいあります。
 
 ある人は、「人間は考える葦である」と言いました。池や川に生えている、茅葺き屋根に使う細い葦のことですが、葦は風にゆらぎます。だから、「考える葦である」というのは、人間は揺れ動いて人生は生きるものなんだという意味です。だから、悩んだり、悲しんだり、憂いたりは、一生ずっと続くものだと思います。
 前回も話したように、乳児期には、ただ100%受けるしかないという経験をします。特に生後6か月までは、赤ちゃんは100%受けて生きています。
 「幼子は神に近い」と誰かが書いたのは、神様はすべてを受け入れる、人間の弱さをすべて受け入れるからです。私は、元牧師だったものですから、旧約聖書、新約聖書をすべて読みましたが、人間のわがままもすべて、全部受ける神なのです。怒るとか、罰を与える神ではありません。
 だから私もそれを学んで、すばらしい人間になりたいと思い、なるべく怒ることを避け、人をうらんでも許す人間になりたいということをずっと求めて、現在まで来ています。
 私は今でも、赤ちゃんの目から色々な感覚や人間のすばらしさを学び、赤ちゃんのすごさを感じています。
 生まれてすぐの赤ちゃんは、100%受け入れていて、心地良いか悪いかはあまりわからないと思います。泣いたりすることはあるけれども、心地良いかどうかはなかなかわからない。生後6か月くらいからだんだんわかるようになりますが、受け入れることがプラスであるかマイナスであるかは、なかなか人間にはわからないのです。それでプラスかマイナス、どちらかに偏るとバランスを崩します。
 プラスが多ければ多いほど良いと勘違いする人がたくさんいるのですが、人間は母でも父でも100%満たせる人は誰もいません。ある人はプラスが多くて、とても良い経験をたくさんするかもしれません。しかし、プラスばかりが多すぎて、バランスを崩し始めると、子どもはイライラしてきます。「あなたの意思は何なの?」「あなたの心を聞きたいんだけど」「私の言うことばっかり聞くのは何なの?」「あなたの心を知りたいんだ」と思うようになります。
 特に日々大きくなる赤ちゃんの目を見ていると、「あなたの心を知りたい」「意思を知りたい」とじっーとおそろしいくらい見て訴えていると感じます。50代はじめ頃、赤ちゃんの目を見られなかったのは、その迫力と意思の強さを感じて、私はオロオロしていたんだと思います。
 40歳を過ぎてからずっと、赤ちゃんとお母さんと一体で観察研究させてもらった結果、牧師をやめてから、赤ちゃんは神に近い存在だと、なお確信を持てるようになりました。赤ちゃんは、神に近い存在であり、地球上で最高の動物、すごいものだと感じました。人間は、すばらしい能力を持っており、神秘と不思議に満ちているものなのです。
 プラスが多すぎるとどうなるかというのは、大人で考えるとよく分かるのですが、お金があって、家が大きくて、いつでも親が色々な物で要求を満たしてくれる、それは良いことのように思います。しかし結果的にはプラスの方に偏りすぎて、人間の心はバランスを崩すのです。一番分かりやすいのは、最近芸能界で話題になった○○○○たさんの子どもの例です。何でも満たされて、何でもおいしいものを食べられて、良いものを着せられて、満たされているように見えていても、それが不満になるのです。
 愛着障害の本を読んでみると、だいたい豊かな家庭に育った子どもたちの方が、不安定で、心の病になったり、自殺したり、犯罪を犯したりすることが多いのです。“鼻持ちならない人間”という言葉があります。満たされ続けることが良いわけではなく、わがままな人間になってしまいます。
先程言ったように、人間は赤ちゃんでも誰でも、対等な一人の人間としてコミュニケーションをとりたいのです。親と子ではなく、教師と生徒でもなく、一人の人間として対等なかかわり方をしたいのです。あなたの心を知りたい、本心を知りたいということを、赤ちゃんはずっと求め続けているはずなのです。しかし、大人になる段階で、見てくれないし、誠意を持ってかかわってくれないから、求め続けることをあきらめてしまうのです。
 先ほど額に入れたのですが、ポールトゥルニエの言うように
『子どもは、大人から敬意をはらわれている度合いに応じて自分の人格を意識し、自分の人間としての尊厳を自覚して自分自身を尊重するようになります』
 見学者にも見てほしいので、この言葉を玄関に飾っています。
 敬意をはらわれている度合いに応じて、自分がどんな人間であるのか、どんな存在であるのか、どんな尊いものであるのか、大人の目から感じるということです。そして、自分の人間としての尊厳を自覚して、自分自身を尊重するようになるのです。これは、道徳教育と性教育の基本となるのです。
 乳児期に、赤ちゃんは、どのような心地良い感じ方を受けたか、つまり、自分を、どういう人間として、どう受け入れてくれているのか、神と同じようにそれを受け取る能力を持っているのです。それを、皆さんも乳児期に受けています。それがどういう形で大人になって変化しているのか、検証してほしいのです。
 私は、30代初めから検証が始まったのです。38歳でアメリカに2か月研修に行く前に、自分の生まれた東京都豊島区雑司が谷の環境がそのまま残っていたので、私の乳幼児期の環境を見て回り、私の兄弟、叔父、叔母と母との関係について検証しました。また今では、わが子の環境について検証してみても、やはり母の影響が大きいです。なぜかというと、母は、胎児期から食べ物、飲み物、色々なことを考えて生きています。母は、胎児がお腹の中で徐々に大きくなることを感じ、出産しますが、すべてを受け取って生きているわけね。子どもを受け入れているわけでしょ。
 今朝も朝7時何分かに一人男の子が生まれたのですが、助産師さんが来る前に半分出たからお父さんが受けた、と感動して言っていました。
 そういう経験をし、おっぱいを飲ませ、肌で感じる。お母さんは、赤ちゃんのすべてを受け入れて育てているのです。それは、お母さんにとって、幸福の原点でもあります。しかし、苦悩もたくさんあるのです。子を産んでのマイナス部分として、自分はどこまで受け入れられて育ったんだろうかという検証が始まるお母さんの中に、それは生じます。自分は受け入れてもらえなかったと、ものすごく悲しむお母さんが増えています。自分が心地よく抱かれていなかったことを思い出してしまう母がいるのです。
 男の私でも、検証しています。自分は3歳と6歳上の姉2人に受け入れられ、色々なことがあった後の母の心の余裕、ほっとした気持ちがあって、6歳まで育てられたこと。地域社会の人たちにもゆったりと、母も我が家族も受け入れられていて、心地良かったこと。これらが実証された体験として私にはあるので、6歳まで安定した状況で育てば、無限の可能性を追い求められる人間になれるんだということなのです。
 
 今日も「良い話があるんだ」と目を輝かせて私のところに来たある女の子のお母さんがいました。簡単に話しますが、20人のクラスで、8人の女の子がいて、二手に分かれて、ある女の子がいじめられて、はずされていたそうです。家庭訪問の時に先生は、「お宅のお子さんは、はずされている子を配慮して、うまくみんなに話しながらその子を仲間に入れてくれた。本当にすてきだ」と言われたそうです。
 そういう話は今まで何件も聞いています。そのお母さんを少しからかって、「それは、私が育てたからですって言ってよ」と言ったけど、そのお母さんがまだ気が付かないから「それは、トモエのおかげですって宣伝してよ」と言ったのね。
 学校でアトピーで血がにじんでいるような手をした子とは誰も手をつながないということがあるのですが、トモエの卒園生だけが平気で手をつなぐ、という話を今までにも聞いています。それは違いを認めているからです。
 トモエを卒園した子どもたちは、一人一人の違いを受け入れられる人間になっています。そういう環境を創っているのです。「あるがままを受け入れる」ということです。私もそういう人間になりたいと思って、毎日努力しているのです。差別したくない、差別するような嫌な人間になりたくないと思って、毎日生活環境を創っているのです。
 
 来週のお便りの予告篇ですが、涙出るよー。時間がないので詳しくは言えませんが、6年生の男の子を持ったお母さん、6年生までしっかりと子どもに寄り添って生きていることに感動しました。そのお母さんはトモエに10年近く通っているけれども、本当に子どもに寄り添って生きています。「一生の宝であり、孫やひ孫まで伝わるよ、確信持って」と言ってみんなの前で私はそのお母さんとハグしました。そうやって育っているお母さんを毎日見ると嬉しいです。
 お母さんも一人の人間なのだから、様々なことがあると思います。そして、大きくバランスを崩すこともあると思います。しかし、軸を持っていれば、基礎を持っていれば元に返れるのです。
 
 次に話すことは、お風呂に入っていてふと感じた、私の新しい発想です。
 人生を積み重ねていくことによって、軸に高さが出てきます。軸が高くなるとバランスを崩した時に、その振れ幅が大きくなります。
 この説は、30数年前まだパソコンがあまり広まっていない時に、オーバーヘッドプロジェクターを使って基礎的人間研究について講演して歩いていた時の資料の一部です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 マイナスに傾いたり、プラスに傾いたりする自分のバランスを取りながらも、自分がバランスを崩している時に、どうバランスをとるか、それは簡単なことです。マイナスに傾いたらプラスを見ることです。プラスが多すぎると、威張ったり、鼻持ちならなかったり、人に迷惑をかけたり、人の嫌がることを言ってみたり、人に配慮できなくなってしまう。それをどうバランスをとって生きるか、これは、30数年前に感じたことです。
 この軸の説は、2、3日前にお風呂で感じたことです。この軸がだんだん高くなってくると目立つし、高さがあるからバランスを崩しやすくなります。自分はバランスを崩さない人間だというように、人間は着飾って生きているけれども、孫やひ孫はみんな見ているのです。このおじいちゃん、おばあちゃんはどうなのか。その人の目が死んでいれば、小さい赤ちゃんはあまり関心を持たないでしょ。
 25、6年前のスタッフの研修会で、50代中ごろで発見したことなのですが、この物差しは、年を取れば取る程、マイナスもたくさん見えてくるのです。永遠に見えるはずです。人間を知れば知る程、マイナスも見えてくるし、プラスも見えてくるはずです。人間は枠の中にとどまらないのです。プラスもどんどん見えてくる。マイナスも見えてくる。それをどうバランスをとっていくか。それは年配者のゆっくりと揺れることによってバランスをとっている状態なのです。これは、綱渡りの時に手に持つ棒がヒントになりました。ビルの谷間や、山の高いところをサーカスで綱渡りする人いるでしょ。綱渡りする人は、とても長い棒を持っています。そこからヒントを得たのです。人生、色々な歩みをするときに長い棒が必要になる。それがゆったり歩める秘訣だと感じたのです。自分のマイナス面が見えてきて、マイナスがのびると、プラスを見て、プラスものばさないことにはバランスがとれない。プラスだけのび過ぎてしまうと、偏った人間になる。マイナスだけ見ると、常に自分を卑下して人間は生きてしまう。そうすると、人間は自分だけでなく、他人もそのように見てしまうのです。
 「自分をどう受け入れるか」それは、日々生活する中で、人間の素晴らしさと、弱さをたくさん見ていければ、ゆったりとした人生を歩める。それが人生の基本なんです。
 ですから、小さい時に親に受け入れられなかったからといって、その枠に閉じこもってしまうと、限界のある物差しで、自分も他者をもはかろうとする人間になってしまいます。自分を限界のある物差しではかっていると、わが子も夫も妻もその短い物差しでしかはかれません。自分を枠に閉じ込めてしまうとおもしろくない人間になってしまうのです。
 戦後から生活の豊かさを求めてきた結果として、心の豊かさを失いつつあります。あなたたちに遺された嫌な遺産になっています。生活の豊かさを求めるあまり心の豊かさを失うような遺産が、今の親たちに残され、自分も人も愛せない、結婚しても夫や妻を愛せない、とすれば、子どもも愛せないで苦しんでいる人が、とても増えています。偏った人間になっているはずです。結婚して、子どもを産んだのならば、一人の命としてその責任があるはずなのね。自分もその一人でしょ。年を増すごとに物差しがプラスもマイナスものびていってバランスがとれた豊かな人生を送り、多くの子孫に、やさしさと人間の素晴らしさを伝授していくことになるのです。配慮ややさしさを何百年も何千年も伝え続けられる社会を遺産として子どもたちに残したいと思い、トモエを日々創造してきました。
 
 勇気を持って言います。赤ちゃんを抱っこするそのスリングにしても、偏ってはダメ。そのスリングに入れている時も必要。だけど、赤ちゃんを胸を合わせて抱っこすることも必要なのです。
 今日もある男の子が椅子からドーンと落ちて、ギャーッと泣きました。私が胸を合わせて何も言わないで30分くらい抱っこしているだけで癒されていきました。男の胸でも。男であることで、女の人と比べて機能が劣っているような気がして、女性をうらやましく思っているのですから。本当に黙って抱っこしていたら、そのうち動き出して、自分で遊び始めました。
 赤ちゃんは、ずっとスリングの中にいると背中がむずがゆくなるはずです。だから、私が寝起きの赤ちゃんを、胸を合わせて抱っこして背中をこすってあげると、気持ち良いという顔をして、息をたくさん吸って、すごく喜びます。こういうことは、お年寄りに聞かなきゃダメなのよ。
 これが良いと思ったら、これと、それ1つだけになってしまってはダメさ。色々な状況に応じて、胸を合わせたり、背中をこすったりしてあげることが必要です。今の人たちの中には、胸を合わせて抱っこするということさえ知らないお母さんもいます。なぜか、胸を合わせられる喜びを知らないで育っている母親がいるのかもしれないのです。胸を合わせることが、どんなに大切なことなのか。男女が胸を合わせたから、あなたの命も私の命も誕生したわけでしょ。胸を合わせるということはすごく落ち着くことなのです。ハグもそうでしょ。人とかかわるために、外国であいさつする時にするように、ハグして、ほっぺを合わせなさいと、聖書にも書いてあるのです。それを形式としてやっているだけの話では問題です。でも基本的には、大切なことなんです。人と親しく関われる方法なのでしょう。
 さっき話した、椅子から落ちて泣いていた子の話です。落ち着いてきた時に、少しずつみんなの遊びを見せるために、背中を抱いていると、頭や目を動かしてみんなの遊びを見ているうちに段々と癒されて自分で離れていったのです。
 ですから、その状況に応じて、スリングだけがすべてと思わないで。おんぶも必要。お勝手で朝晩忙しくて子どもがむずかるときには、おんぶが必要かもしれません。見える所に赤ちゃんを座らせて、時々会話をしながらコンタクトをとると、赤ちゃんの心が落ち着くこともあります。
 
 また、トモエでは子どもたちが、テーブルの上に椅子をのせてご飯を食べたりしていますが、本当に見学に来た人はびっくりするよね。まるで座敷牢の親分みたい。時代劇を見ていないと分からないけれど。昔の座敷牢は畳を敷いてあって、その畳を全部重ねてその上に座っているのが、座敷牢の親分です。トモエの子どもたちが、何であんな風にテーブルの上に椅子をのせたりするのか分かりません。高いところが好きなのか。あれは、小学校では絶対にさせられないことです。だから、6歳までにやりなよと言っているのです。そんなことをしてるから入園してくる園児が少ないのかもしれませんね。経済的に苦しくて大変な時には、『やめてくれよー』と心の中で叫んでいました。だけど、口には出せなかったのです。子どものあそび、想像の世界を取りあげたくなかったのです。
 
 本当に子どもの能力のすごさをたくさん感じて、それを受け入れながら生きているお母さんたち。来週トモエ便りに出るのを楽しみにしててください。あるお母さんの告白が本当にうれしかったです。ここまでお母さんが子どもを受け入れて、子どもと一人の人間として心地よくコミュニケーションをとっていることが、孫やひ孫まで伝わるからね、それを喜んでねとお母さんとハグしたのですが。お母さんが育つことによって、子どもの成長を受け入れながら心地良いコミュニケーションをとれるようになり、それは、子孫に伝わって100年後も200年後も続くはずです。20年後、30年後はもっと人の心を大切にしない社会になります。20年後に園長の言っていたことを分かっても遅いですよ。今から感じてほしいと思います。
 子どもにとって、小さい時から両親に「受け入れられている」ということは、母が父が自分としっかりと向き合ってくれていることを感じているということです。簡単なことでしょ。そういうことは、哲学者じゃなくても分かると思います。「受け入れられている心地よさ」というのは、自分としっかり向き合ってくれているから感じるということです。私は、赤ちゃんとコミュニケーションをとることによって、赤ちゃんが、「園長は、自分を受け入れてくれている」と理解してくれているということを、年々赤ちゃんの目を見て分かるようになってきています。
 ポール・トゥルニエの言う「敬意をもって」尊い命だ、素敵なんだよという自分の表現できないくらいの心の思いを、自分の思いを、かわいいね、だけじゃなく、素敵な人間だね、よく生まれてきたね、あなたとかかわるのは楽しいよという気持ちを持っているとそれを感じてくれるのです。彼らは、「園長に受け入れられた」と思うのです。この頃じゅあんちゃんに実験しているのですが、寝ている時に「じゅあん!じゅあん!」と呼ぶと目を開けてくれます。寝ているのに私の声で目を開けてくれるのです。そしてまた寝てしまいます。私の声を感じて目を開けてくれるのです。人とのコミュニケーションを楽しんでいる。今まで本当に色々なことを感じてきたことが、今の自分を創りだしていると思うんです。
 
 特に、第1子目はどうしても初体験で、理想を持って一生懸命育てようと気合いが入りすぎて、やはり子どもに対する目がきつかったり、子どもに要求したりしてしまいますが、それをどうしても子どもは感じるから、第1子目は大人のような表現が多いのです。
 下の子が生まれた4歳の男の子が、今まで我慢していたのをお母さんが本能的に感じて「赤ちゃんごっこしよう」と言ったそうです。すると、その子はそこら辺の本とか何かをばらばらに散らかして遊び、お父さんとお母さんは、それに2時間付き合ったそうです。最後にお母さんが本能だと思うけれど「おっぱい飲んでみる?」と言ったら、その男の子は「うん」と言っておっぱいを飲んで「甘くておいしい」と言ったのかな?お兄ちゃんが遊んでいる間、8カ月の下の子もむずからないで2時間じっと遊んでいたそうです。「どうしてだろう?」とお母さんが聞いたのですが、私は、自分のレベルの赤ちゃんの世界の空気が漂っていて、それが下の子にとってすごく心地良い空気だったからではないかと、すぐ感じました。だから、その子は2時間ほっておかれても不安を感じなかったのだと思います。
 人間というのは、本当に大人になってからでも、自分が受け入れられていると心地よくて、安定して余裕ができて、素敵な人間になれるのです。
 先ほどのお母さんの話に戻りますが、6年生の子どもとのコミュニケーションの取り方、やはり一人の人間として、大人として、母として向き合ったから、人の目を気にしないで、素敵な表情を自分に見せてくれるのです。本当に感動的な文章です。みんなと分かち合おうよ、人間の素敵な世界をね。
 ここトモエでやっていることは、今のところ文献にもないのだから、これは、本当に世界の遺産になると思います。ここトモエでしかやってないんだもん。皆さんの家の宝にしてほしいと思います。
 来週は、「素直に生きる」というテーマで自分の人生をどう生きるかということを具体的に話せればと思っています。
おわり
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